あの夜に響いたチャイムは何を告げた

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「お前と結婚してから、落ち目になった」 「子どもなんか作らなければ良かった」  借金取りから逃げるため何度か引っ越したが、引っ越す金もなくなる。最後に三人が暮らしたアパートは、築五十年以上で昼間でも陽が射さない木造の四畳半であった。そこの暮らしでのせめてもの救いは、両隣の部屋は誰も住んでなく、夫の乱暴する声が近所には聞こえなかったくらいである。  酒がなくなると『買ってこい』といって、私を平手打ちする、足蹴にする、髪の毛をつかんで引きずり回し壁に打ちつける。  二月も前から夫の暴力は始まっていたが、その晩は息子の謙一までをも蹴り始めた。私は半狂乱になって「それだけはやめて」と息子をかばった。  次の日、私は息子を抱いてアパートを出た。痛い足を引きずりながら、隣町の養護施設を訪ね、謙一を預けた。  その後は、なんとか夫に見つからないように冷や冷やして暮らした。  幸い、魚市場での住み込みの仕事にありつけた。そして、半年ほどしたときに省吾さんが謙一と会ったことで、私との縁ができた。彼から結婚を申し込まれても、最初はこんな自分が嫌で渋っていた。  そしてどうしても前田のことに触れない訳に行かず、正直に打ち明けた。  省吾さんは、弁護士を雇って前田との離婚交渉をしてくれた。はっきりしたことは言わなかったが、手切れ金として四百万円ほど渡したそうだ。条件として、今後一切私たちと関りを持たない。子供は省吾の養子に出すことも承諾させたという。  そうして私は省吾さんと結婚し、謙一とともに普通の夫婦の暮らしができた。もちろん西園寺建設という大きな会社の社長夫人として、何不自由のない生活が送れた。でも心のどこかに前夫・前田がいつかやってくるのではという不安があったが、省吾さんが弁護士を入れて、謙一を正式に養子にし、そして前田とは縁を切る念書もとってあるので大丈夫だと言ってくれていた。  その言葉の通り、前田が西園寺家にやってくることは一度もなかった。  日記にはそんな事が綴られていた。
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