遠い人を想う

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 翌日、早めに起きて会社最寄り駅の改札で加賀を待ってみることにした。すでに出勤していたらどうしよう、と思いながら、ホームから改札に向かってくる人の流れを見る。  十分ほどで探し人を見つけた。 「おはようございます」  加賀は目を見開いて歩みを止める。 「おはよう」  驚いた様子ではあるが、すぐに和やかに話してくれた。 「どうしたの?」 「加賀課長を――」 「俺を?」 「……いえ」  待っていた――本心を言えばいいのに急に怖くなる。拒絶されるかもしれないことが、これほど怖いとは思わなかった。 「ちょっと、早めにきたので」 「そう」  でも、きっと加賀は気がついている。早めにきた希望が偶然改札にいて加賀と鉢合わせた、なんてできすぎている。それに希望が加賀を探して人の流れを見ていたことをわかっているだろう。  それでも加賀はなにも言わなかった。必要以上に希望に近づかないようにしているようにも見える。 「じゃあ、俺先にいきますね」  結局逃げ出すのか、と自分を責める。 「待って」  だが加賀が呼び止めてくれた。 「せっかくだから一緒にいこう」 「……はい」  希望がそれを望んでいることも、加賀にはお見通しだろうか。  五分の距離が幸せだった加賀の気持ちがわかる。今、希望はこの短い距離を一緒に歩けることを喜んでいる。彼の好意に戸惑いながらも笑い合って、穏やかな時間をすごした、あの日々に戻りたい。 「今日も頑張ろうね」  あくまで「課長」として接してくる加賀に苦しくなる。  戻れるなら戻りたい。どうしたら戻れるのか――自分が覚悟をすれば、道が拓けるのかもしれない。  今ならわかる。あの忘れてしまった夜になぜ加賀にもたれかかったのか。あの人に引き寄せられたのだ。優しさや穏やかさ、まとう空気すべてが心地よい人に、希望は安らぎを求めた。  今、また自分は同じものを欲している。  終業後、ビル前で加賀を待つ。いつかと同じ場所に立ち、ビルの出入り口から出てくる人の流れを眺める。  希望が待っていたら、加賀は朝のように驚くだろうか。  もう一度はじめからやり直したい。それを伝えてスタート地点にふたりで立ちたい。  しばらくして加賀が出てきた。近寄ろうとした足が止まる。加賀は女性社員とふたりだった。女性は明らかに加賀に気があり、ふざけるように加賀の腕に触れて微笑んでいる。その姿に激しくいら立った。  あいだに割って入りたい気持ちを抑え込んでこぶしを握って耐える。今の自分はとても嫌な顔をしているだろう。背を向けようとしたら加賀と目が合った。慌てて逃げ出す。  こんな顔を見られたくない。今だけは逃がしてほしい。足を速める前に捕まった。手首を掴まれて振り払おうともがくけれど、加賀は離さない。 「どうしたんだ」  優しい低い声が鼓膜をくすぐる。その響きは脳にまで伝わり、感情を揺さぶった。 「……俺以外の隣にいないで」  本音が飛び出し、はっとする。慌てて顔を背けた希望を、加賀は抱きしめた。 「その言葉の意味は?」 「苦しいんです。あなたが他の人といると」  腕の力が強くなり、瞼を伏せる。 「俺以外と並んでる加賀課長は嫌です」  加賀が深く嘆息するのを感じる。吐息が首筋に触れてぞくりとした。 「じゃあ、きみが俺の隣にいてくれる?」  窺うような声だけれど、たしかに期待がこもっているのを感じる。希望は大きく頷いた。 「います。だからお願いです。他の人と並ばないで」  苦しいくらいの力がほっとする。加賀の柔らかいにおいを感じて、視界が涙で滲む。顔を見られそうになり、俯いて表情を隠した。 「どうして隠すの?」 「だって……、俺、今ひどい顔しているから」 「そうだね」  加賀が認めるので、やはりひどいのか、と加賀の肩に顔をうずめる。大きな手が希望の髪を撫でた。 「俺が好きだって顔をしてる」  頬が熱くなり、ますます顔をあげられない。そんな顔をしているつもりはなかった。  加賀の肩越しにビルの入り口を見ると、出てきた人たちがなにごとかとこちらを見ている。 「さっきの人は……?」 「知らない。希望しか見えない」  低い声が震えていて、胸が疼いた。 「たくさんつらい思いをさせてごめんなさい。俺はもう逃げません」  加賀の背中に腕をまわす。 「俺も、加賀課長しか見えないです」  誰の目も気にしない。自分には、この人だけ。
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