遠い人を想う

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 加賀累人(るいと)課長は真面目すぎるくらいの男だ。つややかな黒い髪に同じ色の瞳、高身長と均整の取れた体躯は誰もが一瞬で目を奪われる。なんでもスマートにこなすうえに気遣いもできる。三十という年齢相応の落ちつきもあり、だからといって老け込んでいるわけでもない。恵まれた外見がありながら女性関係の噂はまったくなく、人の噂話に乗ることもない。潔癖そうなところが恰好いいと希望も思っていた。社内の全員が「素敵な男性」にあげるだろう。  地味な希望とは別の世界の人、だったのに。そんな加賀と寝てしまった。まだ信じられないが、身体の違和感がそれを真実だと教えている。  でも、どんなに記憶を辿っても、肝心な部分が思い出せない。お酒での失敗なんてはじめてだから、どうしたらいいかわからない。 「橋村」 「え? ……あ」  不意に同僚が缶コーヒーを希望のデスクに置く。別にいいのに、と思いながら「ありがとう」と受け取る。そうしたほうが相手も気にせずに済むようだから。  同僚が離れていくのを見送ってから途切れた考えごとを再開する。  昨夜は飲みすぎた記憶はある。そのままそんなことをしたなんて、自分が信じられない。しかも男同士だ。男同士――自分は異性愛者のはずだが、男でも大丈夫だったのか。そこもわからない。加賀は同性愛者なのか。希望は昨夜いつものようにひとりで飲んでいたので、余計にわからない。なにもかもわからない。 「橋村くん?」 「……っ!」  声をかけられてはっとする。顔をあげるとそばに今度は加賀が立っている。慌てそうになる自分を必死で抑えた。 「なにか問題があった?」  もう一度はっとして首を大きく左右に振った。ずっと手が止まっていたことに、今になって気がついた。 「すみません」  今は仕事に集中しないといけない。 「もし具合が悪いようなら言って」  身をかがめた加賀がこそっと希望の耳もとで囁く。その距離の近さに緊張する。 「だ、大丈夫です」  笑顔を見せるとほっとしたように加賀は自分のデスクに戻っていった。  課内には多数の社員がいる。その中のひとりの手が止まったことにも気がつくくらい、きちんと見てくれているのだ。感心している場合ではないのについ感嘆した。いつも忙しそうにしている加賀が、ひとりの部下をこうやって気遣ってくれるなんてすごい。  昨夜のことはいったん保留にして仕事に集中する。データを見ながら必要な情報を抽出していると、もやもやは薄れていった。  昼休みになり、パソコンをシャットダウンする。いつものように社食にいこうと椅子を立つ。 「お疲れさま」  背後から声をかけられて振り返ると、加賀が微笑んでいる。 「ランチいこう?」  希望が答える前にまわりに人が集まった。 「加賀課長、私たちもご一緒したいです」 「俺も」 「俺もいいですか?」  女性社員だけでなく、男性社員も一緒にいきたいと言う。すごい人気だな、と希望はその様子を茫然と見つめる。  加賀は人望が厚い。上司からも部下からも期待され、頼りにされている。そんな相手に声をかけてもらえたなんて嘘のようだ。  みんなでいくのなら社食ではなく外かな、とぼんやり考えていたら、加賀が困ったような顔で微笑む。 「悪いけど、今日は橋村くんとふたりで」 「え……」  声をあげたのは指名された希望だ。  なぜ自分なんかとふたりで、と疑問をいだくが、加賀は言葉どおり希望だけを連れて部署を出た。 「あの、俺なんかとふたりでいいんですか? みんなと一緒のほうが楽しいんじゃ……」 「俺はきみとふたりが一番楽しいよ」  優しい笑みを向けられ、ぽうっとなる。そうならないほうがおかしいくらい、笑顔が綺麗だ。 「橋村くんはいつも社食だけど、たまには外にいく?」 「はい……。あれ」 「どうかした?」 「どうして俺がいつも社食を使ってること知ってるんですか?」  問いかけは「なんでだろうね?」と微笑みで躱された。こういう言い方も嫌味に感じないところがすごい。すごいところだらけだ。 「外にいこうか」  ふたりでビルを出て歩く。昨夜のことを覚えていないと言わなければいけないのに、言葉が出てこない。こんな経験が今までにないので、なんと伝えればいいのかわからない。 「どうかした?」 「いえ」  とりあえず今は保留にしよう。考えてもわからないことは少し時間を置いたほうがいい。そうしたら解決法が見えるかもしれない。  ビルから五分ほど歩いたところにあるカフェに入る。おしゃれな空間は慣れていなくて落ちつかない。  そんな希望に対して加賀は空気に溶け込んでいて、アンティーク調のテーブルと椅子のセットにとてもよく馴染んでいる。加賀がいると雑誌のページのような見映えのよさで感動してしまう。思わずじっと見入っていると苦笑された。 「穴が開きそうだ」 「す、すみません……!」 「いいよ。希望の視線は心地いい」  また希望と呼ばれ、名前の響きで耳がくすぐられる。低くて落ちつく、優しい声だ。聞き慣れているはずなのに、こうやって呼び方ひとつ変わるだけで印象がだいぶ変わる。 「なににする?」  メニューを見て希望のお腹が鳴ったが、加賀は聞こえないふりをしてくれたようだ。逆に恥ずかしい。 「デミグラスオムライスにします」 「じゃあ俺はサラダ丼にしようかな」  悩んで悩んで決めると、今度は加賀が希望をじっと見ている。落ちつかなくて思わず俯いた。 「あんまり見られると」 「え?」 「……緊張します」  正直に気持ちを言うと、加賀は目を見開いてからふっと噴き出した。おかしいことを言ったつもりはないのだが、加賀には面白かったようだ。 「笑ったりしてごめん。昨夜も似たようなことを言っていたなと思って」  昨夜のことを出されると縮こまってしまう。やはり早く言ったほうがいい。覚えていないんです、と。言わなくては、と思えば思うほど焦ってうまく言葉が出てこない。なにをどう言ったらいいかがわからなくなる。 「お待たせしました。デミグラスオムライスとサラダ丼です」  希望がようやく口を開こうとしたら店員が注文した料理を運んできた。言えそうだったのに難しい、とおいしそうなオムライスを見たらまたお腹が鳴った。 「ふ、……はは」 「……すみません」 「いいよ。可愛い」  今度は笑われた。恥ずかしい、と思いながらいただきますをする。加賀も同じように手を合わせてサラダ丼を食べはじめた。ふわふわの卵とデミグラスソースが絡まっておいしい。 「希望」 「え?」  加賀が希望に向かって手を伸ばし、長い指で口もとを拭う。なにごとかと身体が固まった。 「ついてたよ」 「……っ」  恥ずかしくて頬が熱い。子どもみたいだと笑われるかもしれない。でも加賀は感動したように瞳を揺らす。 「こうやってきみに触れられるなんて夢みたいだ」  柔らかく目を細めた加賀の、あまりに幸せそうな表情にどきりとする。 「夢みたいって?」 「俺のことが知りたい?」  聞き返され、希望は眉を寄せて見せる。 「質問に質問で返すのはずるいです」  少し拗ねた顔をすると、加賀が微笑む。そんな鷹揚さも恰好よく見える。大人の男性だ。希望もこんなふうになりたいと思うが、きっと無理だ。本質が違う。 「俺は希望をもっと知りたいと思ってるけどね」 「それもどうして?」 「さあ、どうしてだろうね?」  存外ずるい人かもしれない。新たな一面を知り、少しくすぐったかった。  そんな希望の思考を読んだような顔をした加賀がわずかに瞼を伏せる。それが寂しげに映って、胸が小さく痛んだ。 「どうしたんですか?」 「え?」 「気のせいだったらすみません。……寂しそうな顔をしていたように見えたので」  加賀が目を見開き、ふわりと微笑んだ。 「幸せすぎて苦しいだけだよ」  ごまかされたのだろうか。そんなふうに思わせる笑顔だった。
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