遠い人を想う

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 午後はちらちらと加賀のほうを見ていた。仕事に集中しようと思うのに、昼休みに見た加賀の寂しそうな笑顔が頭に浮かび、つい目が追ってしまう。 「……!」  目が合うと「こら」という顔をされ、先ほどのような顔をしていないことにほっとする。  昨夜あの人と寝たのだ。記憶では覚えていないけれど、身体の鈍い重みが教えてくれる。でも、本当になにがどうなってそうなったのかわからない。  いったん保留を解除して記憶を辿ってみる。よくいくバーで飲んでいたのは覚えている。たしか、そろそろ帰ろうかと思ったときに……加賀が店に入ってきたのだ。そうだ。  ――偶然だね。隣いい?  希望は立ちあがりかけた腰をおろした。それからなにかを話しながら飲んでいて、加賀が「夢みたいだ」とランチのときのように目を細めた。  そう、あのときもそんなことを言っていた気がする。それで希望は「なにがですか?」と聞いた。そのときには自分はけっこう酔っていた。  ――大丈夫?  問いかけに、「ちょっと飲みすぎちゃいました」と加賀にもたれかかったような……。  誘ったのは希望のほうでは、と焦る。そういえば加賀も「あんなことを言ってくれるとは思わなかった」と言っていた。  自分が誘っておきながら覚えていない――愕然とする。  でも、どうして男同士でそういうことになったのだろう。希望がもたれかかっても、加賀なら笑顔で躱せるはずだ。あのスマートな男性はそれくらい簡単にやれる。課内の飲み会で女性社員から似たようなことをされていたところを見たことがあるが、さらりと微笑みで躱していた。  ではなぜ自分とはそうなったのか。もしお酒の勢いでそうなったとしたら、朝起きたときや、これまでの対応がおかしい。普通は避けたり気まずくなったりしそうだが、加賀はそうではない。 「うーん……?」  それにどうして希望は加賀を誘ったのだろう。尊敬する課長だとは思っているし、恰好いいとも思っている。でもそれだけだ。同性なので恋愛対象として見たことがない。たとえ加賀が異性でも、高嶺の花すぎてそんなふうには見られない。あくまで、いつかはあのようになりたい、という「憧れの上司」だ。  頭をかかえてもどうにもならない。覚えていないと言ったら、やはり加賀は傷つくだろうか。想像しただけでせつなくなる。それでも言わないわけにはいかない。いつまでも黙っていたら、もっと言い出しにくくなる。 「……よし」  帰りに加賀を待って、本当のことを言おう。  終業後、加賀が残った仕事を片づけているのを眺めながら待つ。手が止まって通勤バッグに手を伸ばした。終わったのだろうか、と様子を見ていると目が合った。驚きを隠さずに希望を見た加賀が立ちあがる。通勤バッグを持っているから帰るようだ。 「どうした?」 「駅まで一緒にいこうかなと思ったんですが、迷惑ですか?」  そのあいだに昨夜のことを覚えていないと告白しようと思った。加賀が嬉しそうに表情を崩す。 「迷惑なわけがない。希望が待ってると知っていたら、もっと早く切りあげたのに」  申し訳なさそうに眉をさげるので、希望は恐縮して顔の前で手を左右に振り、さらに首も横に振る。 「そんな。俺が勝手に待ってただけなので」 「嬉しいよ」  その笑顔に胸が痛む。傷つけることを言わなければいけないから。  駅までのあいだ、時間は五分ほどあった。他愛のない話をして足を進める。 「それじゃ、失礼します」 「気をつけて」  希望はなにも言い出せず別れた。加賀があまりに幸せそうにしていて、言い出すなんてできなかった。この表情を曇らせるのかと思ったら口を噤んでしまった。  ひとりで電車に揺られる。自宅最寄り駅から見慣れた路地に入り、薄暗い道を歩く。 「俺の馬鹿」  言わずにいたら余計に言いにくくなるのだから、早く言わないといけない。言わずにいればいるほど、言いづらくなる。 「……俺の馬鹿」  もう一度自分を責める。  優しい笑顔が脳裏に焼きついて離れない。傷つけたくないけれど、それ以外に結末はない。どうにか回避したくても、真実を言ったら絶対にあの笑顔を曇らせる。 「なんであんな失敗したんだ……」  ため息をつく。  後悔しても昨日には戻れない。
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