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今日は絶対に言う。言わなければいけない。
意気込んで出勤するが、気が重い。どうにか加賀を傷つけずに済む方法はないかとひと晩考えたが、どうやっても無理だという結論に至った。
「希望」
会社の最寄り駅について改札を出ると、名前を呼ばれた。辺りを見まわしたら加賀の姿があった。
「加賀課長?」
希望が驚いているのを楽しそうに見つめるのはたしかに加賀だ。通勤バッグを持って、優しく微笑んでいる。
「一緒にいこう」
「どうして……」
「待ってたんだ」
「こんな短い距離を歩くために?」
当然のことのように「そうだよ」と返ってくる。
「俺には希望とのすべての時間が幸せだから」
本当のことを話さなければいけない。自分が言ったことさえ覚えていないことを――。
でもそれを言うことが怖い。こんなに優しい笑顔を向けてくれる人を傷つけるなんて、希望にはできなかった。
「どうして俺なんか……」
「謙虚なのはいいけど、卑屈になるのはよくないよ」
優しい言葉がつらい。こんなことになっていなければ嬉しく受け取れていた言葉だろうに、今の希望にはただ痛かった。
「きみにはきみだけの魅力がある」
加賀の微笑みを見て、すべてが素敵な人だな、と改めて思う。こうやっていろいろな人のいいところを見ているのだろう。それをしようとしても簡単なことではない。
足を前に出しながら話そうと覚悟を決めるが、会話が途切れても希望は違う話題を振っていた。逃げてもどうにもならないのに、言うことを拒絶していた。
「帰りは俺が待ってます」
「じゃあ早く仕事を終わらせないとな」
張り切られてくすぐったい。
部署について別れると、自然とため息が零れた。また言えなかった――違う、希望は言わなかった。このずるさこそ許されないのではないか。
でも、あの優しい微笑みを傷つけたくない。もう少しだけこのまま言わずにいてはだめだろうか。
「お待たせ」
「全然待ってないですよ。必要な書類は集まったんですか?」
「集めたよ。希望を待たせるのは悪い」
そんなふうに言ってくれるから、逆に申し訳なくなる。
業務終了までに必要書類が集まらないと困る、と昼休みに言っていたけれど、様子を見ていたら加賀が自ら集めにいっていた。退勤時間を十分とすぎずに通勤バッグを持って立ちあがった彼の姿が希望を苦しくさせる。
たった五分のためにそんなに頑張らなくてもいいのに――そんなふうに思ってしまう自分が薄情なのか。
一緒に歩きながらぼんやりと加賀を見あげる。あまりにじっと見ていたのだろう。加賀が視線に気がついて困ったように微笑む。
「今度の週末、ふたりで出かけない?」
「え?」
「思い出がほしいんだ」
「思い出?」
加賀がせつなげに眉を寄せて、無理やり作ったような笑顔を見せる。
「一昨日の夜のこと、覚えてないんだろう?」
「……!」
希望が言い出せなかったことを言い当てられ、動揺するが静かに頷く。どんな反応が返ってくるかと思ったが、加賀は希望を責めなかった。
「知ってたんですか?」
「すぐに気がついたよ」
加賀は遠くに視線をやって寂しそうに呟く。見ているほうが心細くなる瞳だった。心にすうっと風が通りすぎる。
「それでも一緒にいたくて気がついていないふりをした。ごめん」
「そんな……。俺のほうこそ」
立ち止まった加賀に合わせて足を止める。わずかに振り向いて彼を見つめると、加賀は少し俯いて黒い瞳を伏せた。その姿が寄る辺なく見えて胸が貫かれた。
「あのとき、きみは『恋愛がいつもうまくいかない』と俺に相談してくれたんだ」
忘れた夜のことを教えてくれる声に耳を傾ける。向こうから人が歩いてきて加賀が歩道の端に寄ったので希望も合わせた。
「酔っていたから希望は無防備で、……我慢できなかった」
ごめん、と加賀は自分こそ悪いと謝るので、首を横に振った。
「酔った相手を抱くなんてしたくないのに、相手が希望だったから、……あんなに可愛いことを言われて、抑えられなかった」
「可愛いこと?」
答えはなく、寂しそうな瞳が揺れている。夕陽が彼の整った表情に陰影をくっきりと浮かばせ、その表情をさらに痛ましく見せた。
「ずっと希望の姿を目で追っていた。そんな俺にはこれ以上ない誘惑だったんだ」
懺悔のように告げる加賀の姿が痛々しい。でも目を逸らしてはいけない、と希望はまっすぐ加賀を見つめた。
「俺と一緒にいることに違和感があることもわかってる。だから最後に思い出がほしい。酔っていないきみとふたりですごす時間」
「どうして俺なんかを……?」
「なにごとにも一生懸命で、ときには泥をかぶる強さは眩しいよ」
加賀が目を眇める。そんな加賀こそ眩しかった。
自分は加賀を傷つけるひどい男だ。でも加賀が望むなら――。
「じゃあ、デートしましょう」
「ありがとう」
微笑んでくれるが、希望は感謝されるような立場ではない。心も身体も重くなり、息苦しさを感じる。
「また明日」
「はい」
改札で別れてため息をつく。「最後の思い出」が胸にずしんと落ちる。結局加賀を傷つけた。やり切れない思いで目を伏せる。ようやく事実がはっきりしたのに、すっきりしない。
帰宅して気持ちを切り替えようとシャワーを浴びたけれど、まだ加賀のせつなさが肌に感じられる。彼にあんな顔をさせたのは自分だ。肌にぴりぴりと切りつけるような痛みが走る。でも希望以上に加賀は痛みを感じている。
浴室から出て冷蔵庫からビールを出そうとしてやめる。自分のすべてが納得できない。
「『希望』、か」
愛情に満ちた声が耳に蘇る。あんなに優しく名前を呼んでくれる人は他に知らない。
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