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迎えにいくよ、と言われて自宅アパートの前で加賀を待つ。
もやもやする。本当に終わりの日だ。
シルバーのSUVが近づいて来て、運転席に加賀の姿を見つける。静かに停まった車から降りてきた加賀は当然私服で、見慣れないからか眩しく感じた。ネイビーのシャツにベージュのチノパン姿は特段珍しい服装でもないのに、加賀が身につけているとどこかのハイブランドの品のように見える。
「高そう」
「なにが?」
「……いえ」
ひとり言を聞かれ、少し恥ずかしい。
「待たせてごめんね」
「全然待ってないですよ」
助手席のドアを開けてくれるスマートな動作に男らしさを感じる。運転席に座った加賀が車を出した。
「どこにいくんですか?」
「決めてない」
加賀は希望に視線を向けて、寂しそうに目を細めた。
「ただ隣に希望を感じていたい」
本当に終わるのだ。わかっていたはずなのに胸が苦しい。
「ごめんね。俺の我儘につき合わせて」
「そんな」
悪いのは希望のほうなのに、加賀は責めない。それが逆につらい。
車は静かに走る。加賀が特に口を開かなかったので、希望も静かに座っていた。それでも居心地の悪さがなく、穏やかな空気はそのままだ。
運転席を見る。加賀は横顔も綺麗で、思わず見入った。
「どうした?」
「いえ……。恰好いいなと思って」
驚いたような顔をした加賀は、口もとを少し綻ばせる。わずかに頬が赤らんでいるから、照れているのかもしれない。
「希望にとっては俺といるのはつらい時間だったかもしれない。でも俺はその時間があって、本当に幸せだったんだ」
「……はい」
それでも加賀は希望を解放してくれる。希望にとって加賀との時間は戸惑いばかりだったけれど、彼が言うようなつらいものではなかった。もちろんはじめは受け入れられなかったけれど、加賀の人柄はそういうことを乗り越えさせてくれた。
「本当に最後なんだな」
せつなげな声に胸が貫かれる。今、希望が「最後じゃなくてもいい」と言ったらどうなるのだろう。震える唇をきゅっと引き結び、勇気を出して口を開く。
「あの、最後に――」
「え?」
「……いえ」
最後にしないこともできますか――聞こうとしたけれど聞けなかった。加賀に期待をさせるだけだと思ったら、そんな言葉は口にできなかった。ここまで傷つけて、また傷つけるなんてできない。
気の向くままに停まって車を降りる。少しのんびりしたらまた車に乗って進んでいく。どこにもいきつかないドライブは、加賀と希望のようだった。
海沿いの道を進み、だいぶ遠くまできたようだとぼんやり波の動きを見る。窓を少し開けると、潮風が吹き込んできた。
「停まろうか?」
「いえ、いいです」
このまま走り続けたらどこかにいけるのか。それはどこだろう。胸にあるやるせなさが消えるなら、いつまでも進んでほしい。終着点に辿りつかなくていいから、どこまでも進みたい。
静かな車内には音楽も流れていない。ただ加賀と希望だけが存在している。ときおり聞こえる、加賀が息を吐き出す音はため息なのか。その嘆息の意味が知りたくても聞けない。
「あ、森林公園」
「入る?」
「……はい」
少し外の空気が吸いたくなった。ちょうど森林公園の看板が出ていて、そこに入ってもらう。広い駐車場の端に車が停まり、ドアを開けると涼しい風を感じた。
「気持ちいいですね」
陽射しが眩しい。木々の中をふたりで並んで歩く。思わず深呼吸をしたくなるくらい空気が澄んでいる。
加賀の口数が少なく、なんとなく顔を見あげると目が合った。見られていたのだろうかと恥ずかしくなる。
「希望は綺麗だな」
「はい?」
「綺麗だ」
そんなことは言われたことがない。地味だな、ならわかるけれど、綺麗なんて。
「綺麗なのは加賀課長です」
目を逸らして答えると、向こうからジョギングをしている人が走ってきた。よけようとしたら肩を抱かれて脇に寄せられる。
「あぶないよ」
「は、はい」
驚いて心臓が跳ねた。香水か柔軟剤か、柔らかいにおいを感じる。加賀は香水という感じではないから、柔軟剤だろう。
大きな手が離れて少し寂しくなる。思わず顔を見あげると、加賀は微笑んで首をかしげた。
「……加賀課長」
「なに?」
言いたい。本当に最後になるんですか――そのひと言を口に出したい。
「なんでもないです」
言ったらきっと加賀は期待する。応えられない気持ちに期待だけを注ぐなんてしてはいけない。
ベンチを見つけ、ふたりで並んで座る。
「静かだな」
「はい」
鳥の鳴き声が聞こえてそちらを見ると、名前を知らない鳥が飛んでいく。花々が風に揺れて心地よさそうだ。木々に囲まれていると穏やかな気持ちになれる。
でも希望はそれ以上に穏やかな時間を知っている。加賀とすごすときは、なににも勝る落ちつきを得られる時間だ。
「……希望はあの日、『誰か俺を愛してくれるでしょうか』と言ったんだ。そんなことを言うと知らないよ、と答えたら『加賀課長だったら全部いいです』と」
「え……」
「気になる子にそんなことを言われたら、止まれなくなって当然だと思わない?」
悪戯っぽく笑って見せているが、瞳が揺れている。せつない色をたたえたその黒い瞳をまっすぐ見つめたが、希望は耐えられなくなって目を逸らした。
「どうして課長は俺を……」
気になる子、という言葉に引っかかる。以前もそんなことを言っていたけれど、希望には加賀との接点自体そんなになかったのだ。
「以前、会議で他の社員が間違って配った資料を自分のミスだと言ったことがあったね?」
「……はい。すみません」
そのときはそれでおさまり、特段追及をされなかったからばれていないと思っていた。それ以来、かばった相手の同僚に気を遣わせているから結果としてよかったのかどうかはわからない。もらう缶コーヒーも砂糖入りなのに苦く感じる。あのときは同僚が口を噤んでいたから咄嗟にかばったのだが、本人が名乗り出るまで待つべきだったのかもしれないと今になって思う。
「たしかに褒められたことではないけど、人をかばって損な役まわりができる姿を眩しく感じたんだ」
まさかそんなところを気に留められていたとは思わなかった。
「俺にはそんなことができないと思ったら、きみの優しさが羨ましくて仕方がなかった」
「加賀課長が?」
「俺だって人を羨ましいと思うことがあるよ」
苦笑されるが、加賀が希望に羨望を向けるなんて想像もできない。
本当に最後なのか。これでおしまいなのか。
「あの」
思ったより出た声が震えていた。希望を見た加賀が目を見開く。
「どうした?」
「え……?」
手を伸ばされ、頬を撫でられる。そのときになって、自分が泣いていることに気がついた。涙を拭われ、申し訳なさが胸を占める。
「ごめんなさい」
「なにが?」
加賀は希望の謝罪に不思議そうにしている。加賀こそ優しい。優しすぎる。
「傷つけてごめんなさい……。振りまわしてごめんなさい」
「振りまわしたのは俺のほうだ」
「でも、ごめんなさい……」
次々に「ごめんなさい」が飛び出す。何度謝っても足りない。
柔らかいにおいに包まれてどきりとする。加賀に抱きしめられたのだと次の瞬間にわかった。
「謝ることなんてひとつもない。ただきみは俺に幸せな時間をくれたんだ」
まわりの人が見ているけれど、涙が止まらない。加賀も希望を離さず、その腕の中で泣き続けた。
どれくらいそうしていたか、涙がおさまった頃に加賀が立ちあがった。
「帰ろう」
「……はい」
もう終わりになる。胸が苦しくて、なにかが詰まったように喉が圧迫される。
帰りの車の中は、くるときとは違う沈黙があった。触れたらいけないような空気の中、静かに車が進む。窓に目をやり、そこに映る自分が寂しそうに瞳を揺らしているのを見て、まだ間に合う、と視線を加賀に向ける。今から「終わり」をなしにすれば、まだこの空気の中にいられる。
「……」
口を開きかけて閉じた。無理だ。加賀を苦しめるだけだとわかっていて、そんな自分勝手なことは言えない。
「もうつくよ」
「……」
「希望?」
「あ、……すみません。ちょっとうとうとしてました」
本当はうとうとなんてしていない。ごまかした希望の言葉を加賀がどう取ったかはわからないが、「そう」とだけ答えが返ってきた。
自宅につくまでが、言いすぎではなくたしかにあっという間に感じた。辺りは薄暗くなっていて、街灯がついている。
「それじゃ」
「はい」
「また明日、会社で」
「……はい」
そのときにはもう「課長」と「部下」に戻っている。それが正しい形なのに違和感がある。
「入って。きみが部屋に入ったら俺も帰るから」
一緒に車を降りた加賀が希望の背を押す。歩き出して、希望がアパートに入るのを見守ってくれている加賀を振り返る。手を振られて、ひとつ頭をさげた。
部屋の照明をつけて急いで窓を開ける。照明がついたことで希望が部屋に入ったことを確認したのだろう、加賀が運転席に戻る姿が見えた。
シルバーのSUVが滑るように走り出す。遠くなっていく車を見ながら、心がからっぽになるように感じる。自分の頬に触れて、涙を拭ってくれた温もりを思い返す。
胸が痛い。
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