遠い人を想う

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 あまりよく眠れなかった。昨日は一日外出して疲れているはずなのに、目を閉じても眠れないまま朝がきた。ぼんやりしながら朝食を食べて、加賀を思い出す。幸せなんてあげられていない。自分は加賀を苦しめただけだ。  胸が痛くて苦しい。締めつけられるような痛みに視界が涙で揺らめいた。  出勤して会社の最寄り駅につく。ホームから改札にいくあいだ、どきどきと心臓が跳ねていた。もしかしたらまた待っていてくれるかもしれない。「おはよう」と微笑んでくれるかも――。  改札について辺りを見まわすが、加賀の姿はなかった。ため息をついて駅をあとにする。  部署につくと加賀はすでにデスクにいた。しばし様子を見ていても、特に変わったところはない。加賀以上に自分が引きずっていることに気がつき、もう一度ため息を落とした。  こちらを向いてくれるだろうか。視線を加賀に向けていても目が合わない。諦めて椅子に座った。なにを期待していたのだろう、と自嘲する。昨日で終わりだったのだから、これが正しいのだ。希望自身終わりのつもりだった。酔った勢いの間違いから近づいた距離が、もとの位置に戻っただけだ。なにもおかしくない。  加賀とのことにたしかに戸惑っていた。それでも「終わり」がこんなにも後悔をもたらすなんて思わなかった。  加賀といると時間が軽やかにすぎていったのが嘘のように、毎日の一分一秒が重く長い。なにをしていても集中できず、気がつけば加賀を目で追っている。でも、その視線はもう交わらない。  昼休みにふたりでいったカフェに足が向き、デミグラスオムライスを頼んだ。隣に加賀はいない。  振りまわして迷惑をかけておいて、まだ加賀の視線が自分に向けられること期待している。  自分はこんなにずるい人間だっただろうか。  終わりから一週間が経っても気持ちが晴れない。会社では加賀を目で追い、帰宅したら加賀との時間を思い起こす。どんなに見つめても交わらない視線は、加賀がもう切り替えた証拠だろう。  今日も加賀を待っていた場所で立ち止まり、一度社ビルを見あげてから歩き出す。待っていたところであの日々には戻れない。わかっていても足が自然と止まる。  どうして自分はこんなに苦しくなっているのだろう、あの日々に戻りたいと願っているのだろう――考えてみても答えが出ず、もやの中にあるような自分の気持ちに焦燥感がかき立てられる。  夕陽が沈んでいく。暗くなってきた歩道に街灯がつきはじめて隣を見あげる。加賀がいないことに心細さを覚えた。  駅に向かいながら、まっすぐ帰ってもまた加賀のことを考えて落ち込むだけだ、とあの日飲んだバーにいき先を変える。一杯だけ飲んでから帰ることにした。  カウンターをすすめられ、スツールに腰かける。なににしようかと悩んで、ぱっと頭に浮かんだのがギムレットだった。なんでもいいから思考をぼやけさせたくて、ギムレットを頼む。バーテンダーがシェイカーを振る姿をぼんやりと眺める。 「橋村くん?」 「……?」  聞き慣れた声に振り返ると、加賀が店に入ってきたところだった。希望を見て驚いているが、希望も驚いて咄嗟に反応できなかった。  カウンターに置かれたギムレットを見た加賀は眉をひそめる。 「ちょっと強すぎない?」 「なんとなく、そんな気分で。あ、……どうぞ」  隣をすすめると、加賀は少し迷うような瞳をしてからスツールに腰をおろした。  加賀が隣にいる。それだけでそわそわと落ちつかない。ギムレットをひと口飲んで、確認するように隣を見る。 「俺もギムレットを」  加賀も同じものを頼み、そこにどういう意味が含まれているのかと深読みしてしまった。自分がなんの意味もなくこのカクテルを頼んだように、加賀にも深い意味はないだろう。 「ギムレットって」 「はい?」  加賀が自身の前に置かれたグラスを軽く持ちあげる。 「カクテル言葉、知ってる?」 「……」  加賀も知っているのか、となんとなく気まずい。グラスに口をつけた加賀が瞼を伏せる。その姿が控えめな照明の中、とても美しく映った。 「『長いお別れ』ですよね」 「あと、『遠い人を想う』」  つけ足された言葉は知らなかった。希望もわずかに目を伏せた。 「今の俺にはちょうどいいかもしれない」  加賀は苦笑いをしてグラスを置いた。深読みしたくなる言葉に、希望は期待する自分を感じ取る。  遠くなんてない、こんなにそばにいるのだから――そう加賀に言ったらどんな顔をされるか。  今さら?  返ってくる言葉が怖くて何も言えず、希望はグラスを空けた。 「俺はそろそろ帰ります」 「橋村くん?」  ふらついたところを支えられ、慌てて離れる。懐かしいにおいが鼻腔をくすぐり、せつなさに胸が苦しくなった。 「すみません」 「心配だな。送っていく」 「本当に大丈夫です」  でも加賀は頑として聞き入れてくれず、チェックをしてふたりで店を出た。電車で帰るつもりだったが、加賀がやはり心配だからとタクシーを拾う。先に希望を乗せ、加賀も同じタクシーに乗る。 「またたくさん飲んだんじゃないよね?」 「さっきの一杯だけです」 「それならいいけど」  希望の答えに加賀は少し安堵した表情を見せる。思わず隣ばかり見てしまう。まだ一週間ほどしか経っていないのに、この人が恋しかった。 「ただ、最近あまり眠れてなくて」  加賀の綺麗な眉が寄った。 「そういうときに飲まないほうがいい。特に外で」  運転手に希望の自宅住所を告げる姿がぼんやりしている。酔いのせいかもしれない。 「心配かけてすみません」 「心配するのは仕方がない」  加賀は言い切る。 「だってきみが好きだから」  呼吸が一瞬止まった。息を吸うことも吐くこともできず、加賀を見つめる。だが視線は交わらなかった。加賀が意識して目を逸らしているように感じる。 「ついたら起こすから、寝てるといい」  心臓がうるさい。瞼をおろして心を落ちつけようとするのに、鼓動が速くなるばかりでおさまらない。  勇気を出して加賀の手に手を重ねる。長い指が驚いたようにぴくりと跳ねた。 「橋村くん?」  咄嗟に寝たふりをする。小さなため息が聞こえるが瞼をあげずにいたら、重ねた手を握られた。  ずるくてごめんなさい。  加賀といると自分の醜さが次々露わになる。  このまま時間が止まってしまえばいい。はじめてそんなことを思った。あの日のようにどこにもいきつかない道のりをゆきたい。加賀の隣で、ずっと。 「ついたよ」  でもまた終わりがきた。希望の自宅につき、手が離れる。 「じゃあ、また明日」 「はい」  加賀はそのままタクシーで帰っていった。  胸が苦しくても加賀の隣にいたい。  今さら。  わかっているのに、止められない。  朝起きて自分のずるさにうんざりする。希望の行動に、加賀は明らかに困惑していた。希望も同じ心持ちだ。  考えたこともなかった。誰かをこんなにも求めること。  お酒の勢い、なんてドラマや漫画のような失敗を自分がするとは思わなかったし、まさかその相手から好意を向けられるなんて想像もできない。  戸惑う希望を揺り動かす人に捕まった。  加賀のそばにいたい、触れたい、触れられたい――この気持ちの答えはひとつしかない。
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