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「春奈、春奈…」
母の声で目を覚ましたあたしは、病院のベッドの上にいた。
仕事中に倒れて救急車で病院に搬送され、脳卒中の緊急手術を終えて、生死の境を彷徨っていたらしい。
母は嬉し泣きで号泣していた。
母娘二人きりの家族なのに、常連さんが次々に来てくれて、落ち着いたら夜になっていた。
母もずっと病院に詰めていたので、家に帰って休んでもらうことにした。
病室のベッドで一人になって、あたしはあの夢のことを考えていた。
ゆきちゃんて誰? あの女の子は?
あたしは地元の高校を卒業すると東京の大学に入った。就職も東京の商社に決まって十年務めたが、東京の友人や仕事関係にゆきちゃんと呼ぶ人はいなかった。
それにしてもあの会社はブラックだった。過労とストレスまみれの日々が続いて心身共に危なくなってた頃、田舎の母から連絡があった。
年齢的に大変なので、実家の食堂をたたむという。あたしは母に最後まで喋らせず、自分が戻って後を継ぐと宣言し、翌日には部長に退職を申し出た。
もともと中学生の頃から手伝ってたから勝手はわかっていたし、地元の友人や知り合いも暖かく迎え入れてくれた。一年で常連さんが増えて繁盛してるけど、その中にゆきちゃんはいない。
そもそも古風な名前だし、ちゃん付けだから、子供の頃?……でも高校と中学にはいない。小学校は、全員は覚えてないけど、たぶんいない。
あたしは生まれてすぐに父が事故で他界して、小さな頃から母と二人きりだった。母は自分の両親も早くに亡くしてたのに、いつも明るく前向きで、あたしに愛情を注いで育ててくれた。女手一つで食堂を切り盛りしての子育てはどれだけ大変………違う、違うわ。
母は、最初は食堂を営んでなかった。
毎日夜遅くに酔っぱらって帰ってきてた。今考えたらきっと水商売ね。あたしはいつもお腹をすかせてたし、よく怒鳴られてた。
でも、母が突然食堂を始めて、それから変わったのよ。いつも一緒にいられるようになって、母は優しく明るくなった……何がきっかけ?
そうだ。そういえば、おかしなことがあった。
あの日、母はいつものように遅くに酔って帰宅して、起きてたあたしに怒鳴り散らして、お風呂に入って、出てきたらあたしを抱きしめて泣いていた。
いつもと違ったのは、あの時、母があたしに聞いたのよ。いつも一人で寂しくないかって。
あたしは答えた。
「寂しくない。だって、ゆきちゃんが遊んでくれるから」
思い出した……ゆきちゃんは、母がいない時に現れて、いつもあたしと遊んでくれてた。母が帰るといなくなって……あの姿、あの声、間違いないわ。
でも、母が食堂を始めて、あたしも小学校で友達ができるようになると、いつの間にか現れなくなって、ずっと忘れてしまってた。
あたしにゆきちゃんのことを根掘り葉掘り聞いた後、母は優しく微笑んでくれたっけ。春奈にも見えるのねって。母が変わったのはそれからだった。
そうだ。あの頃は聞きそびれて忘れてたけど、今度母に確認してみよう。
あたしは会ったことないけど、おばあちゃんの写真残ってないかって。
名前、ゆきこだったよねって。
(了)
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