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 それから数日、俺はあの男の言葉が頭から離れなかった。人の感情が物質として存在するなど、常識では到底信じられない。  しかし、あの夜から妙な夢を見るようになっていた。  夢の中、霧の中を彷徨い、知らない誰かの人生が垣間見えるのだ。  涙に沈む母親や絶望に押し潰された少年、彼らの感情はまるで見えない鎖に縛られているようで、その生き様はどれも痛みを伴い俺の心に焼き付く。  夢から覚めた時、いつも俺の全身は汗でびっしょりだった。  そんな苦しさと共に起きたある朝、枕元には小さな瓶が一つ転がっていた。中には、あの時男がくれたものと同じような、黒く濁った液体が入っている。 「……本当だったのか?」  瓶を恐る恐る手に取り目の前で振ってみると、重く、ねっとりとした感覚が伝わった。  俺は考える。  もしかしたら、夢の中の人々は現実のどこかで生きているのではないか。彼らの心に沈んだ後悔や罪悪感が、この黒い液体として具現化したのではないか――そう思うと、恐怖と興奮が胸を騒がせる。  しかし、同時に疑問も頭をもたげた。  これが悪戯ではないとして、俺は何もしていないのだ。ただ夢を見ただけ。人の感情を引き出すなんて容易ではないはずだが、俺の手にこれが、なぜ――?  問いを抱きながら無意識に街を彷徨う俺の足元には、黒い液体の重みがまとわりついていた。今日は特に夢で見た人々の後悔や絶望が頭から離れない。 ゆめうつつでぼんやり歩く視界に入ったのは、駅前のベンチに座る一人の中年男性だった。古びた写真を握り込む彼の顔には深い皺が刻まれ、疲れきった眼差しが遠くを見つめている。  吸い寄せられるように彼に近づいた俺は、言葉は交わさないまま、ただ隣に座った。  やがて彼は、ぼそりと呟く。 「もう少し早く、謝っていれば……」  その一言が、まるで湖に一つ投げ込まれた石のように、静かに心に響き渡った。周囲の音が一瞬消え、世界が揺らぐ。視界がぼやけ、次の瞬間には、俺は別の場所に立っていた。   これは夢だ、と認識すると同時、先ほどまで隣にいた男性の過去が映し出される。  彼が失ったもの、言葉にできなかった後悔が。 夢の終わり、目を開けた俺の手元にはまた新しい瓶が一つ増えていた。  俺は瓶を握りしめ、息を切らしながら家へ駆け戻る。黒い液体の重みだけが手にまとわりついた。
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