接触

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「うわ、もうこんな時間だ。今日はそろそろ終わろうか」  純平が時計を見ると、時刻は19時を少し回ったところだった。いつもならとっくに帰っている時間なのに、集中しすぎてしまっていた。 「ホントだ。帰ってご飯作らないと・・・・・・」 「え・・・梓がご飯作っているの?」  梓の一言に純平は驚いてしまう。 「うん。お父さんと交代でだけど」 「そっか・・・大変だな」 「最初は大変だったけど、今は慣れたものよ」  梓は平気な顔をしてそう言い切った。    父親と二人暮らしで、ご飯だけでなくその他の家事もこなしているであろう梓からは、大変さなど感じたことはなかった。でも、大変な様を見せないようにしているとも思える。それに加えて目の病気まで・・・・・・  純平は梓に対する試練がきつ過ぎるだろと、今度こそ本気で神を恨んだ。  防音室を片付けて、電気を消すと途端に辺りが真っ暗になる。  ここで純平は、昨日の梓の様子を思い出し、どうするべきか少し考えて切り出した。 「梓、ゆっくりでいいから。俺の腕、掴んでもいいし」  純平が腕を出すと、梓は一瞬驚いた。しかし純平の口調には、自分のためという以外何もないことが窺えたので、梓はその腕をぎゅっと掴む。自分の腕よりも明らかに太くてがっしりしている純平の腕の感触に、梓はドキッとする。 「ごめんなさい、迷惑かけて・・・」 「迷惑だなんて思ってないよ。転んで怪我をする方が大変なんだから、気にするな」  純平は平静を装って言ったが、内心は心臓がバクバクと早鐘を打っていた。これまで自分から女の子にこんなことを言ったこともないし、女の子と触れ合うのも中学校の時のフォークダンス以来だ。  そんな自分の口から、まさか「腕を掴んで」なんて言葉が出るとは思わなかったので、自分でも驚いていた。    それから二人はお互いの腕を支え合い、ゆっくり防音室から出た。外履きに足を入れ、二人で歩き出す。リビングの方まで来て、照明の明るさで自分の目でも確認できるようになると、梓は純平の腕からパッと手を離した。  その行為に純平はなぜか寂しさを感じてしまった。  二人がリビングに入ってくると、母親が声を掛けてきた。 「梓ちゃん、もしよかったら、お夕飯食べてって」  突然の申し出に梓は困惑してしまった。 「あの、でも、私も父の夕飯を作らないといけないので・・・・・・」 「ああ、それなら大丈夫よ。仕事が終わったらうちの主人と一緒に来るみたいだから。ね?純平と二人で食べるのも飽きたし、おばさんに付き合って?」  母親の言い方には多少思うところがあったが、そこは目を瞑った。  とにかく、少しでも梓の負担が減るなら、今日一日でもいいから一緒にご飯を食べたいと思った。 「梓、梓のお父さんもウチに来るなら、遠慮しないで食べていけよ」 「そうよー、そうしましょ」  梓は二人がかりで説得され、今日は甘えさせてもらうことにした。 「あのっ、せめて何かお手伝いします!」 「あら、そーお?そしたら、お味噌汁のお味噌溶いてもらえる?濃さは梓ちゃんに任せるわよ」 「・・・はいっ、がんばりますっ」  純平は、自分の母親と一緒にキッチンに立つ梓を見て、なぜか気恥ずかしさを感じてしまった。  それから母親と純平、梓の三人で先にご飯を食べ始めた。  父親の帰りを待っていてもいつになるかわからないので、夏見家ではだいたい先に食べることが多かった。 「梓ちゃん、お味噌汁もいい塩梅(アンバイ)で、美味しいわぁ。いいお嫁さんになれそうね」 「あ、ありがとうございます・・・・・・」 「・・・ゴフッ」  『お嫁さん』というワードに純平は味噌汁を吹き出す所だったが、何とか耐えた。でも、父親の帰りが遅い時は、母親と二人のことが多いので、梓がいるだけで母親が楽しそうにしているのを見て、それだけで心が温かくなった。  三人が食事を済ませ、梓が洗い物をしていると、玄関が開いて父親が帰ってきたのが分かった。  玄関で母親が梓の父を出迎えているのか、一段と高い声で話すのが聞こえる。純平はそれを聞きながら、ダイニングテーブルでお茶を飲んでいた。 「ただいま」 「純平くん、こんばんは」  中年の男二人がダイニングに来た。そして、ダイニングテーブルに座ってお茶を飲んでいる息子と、エプロンを着て洗い物をしている娘を見た二人は、その光景を見てしばし考える。 「夏見先生、これは・・・・・・」 「うん・・・まさかこんなに早く見ることになるとは・・・・・・」 「あと10年は先だと思っていたんですがね」 「ははっ、遠山先生も、早めに覚悟しておかないといけないってことですな」  なにか二人で言ってるが、純平と梓にはさっぱりわかっていなかった。 「ほらっ、あなたっ。遠山先生も。こんなところに立ってないで、早く座ってくださいな」  母親に言われて二人はやっと椅子に座った。  それからダイニングテーブルでは、父親たちが夕飯を食べ、母親はその父親たちにお酌しながら楽しそうに話していた。  純平と梓はリビングに移動し、たいして面白くもないテレビをつけていた。  純平と梓は、バイオリンが絡んでいると何でも話が出来るのだが、いざ楽器がなくなると何を話していいのかわからなかった。だから、普段も教室ではめったに話すことはなかった。    それに梓は、相変わらず人と極力関わらないようにしていた。どうしてそういう態度なのか、この時の純平にはわからなかった。  その日の夕飯をきっかけに、梓は防音室での練習の後、ちょくちょく夕飯を食べて帰るようになった。  親同士が仲が良かったのもあるが、今思えば純平の両親は、この時すでに梓の目の病気のことや家庭環境のことを知っていたのかもしれない。  それを直接両親から聞いたわけではなかったが、そうなんだろうと純平は思った。  梓も、最初はもの凄く遠慮していたが、純平の母親と一緒に料理をするようになり、料理を教えてもらったりしていると、自然と笑う回数が増えていた。  母親の愛情をほとんど知らない梓は、純平の母親にその愛情を感じていたのかもしれない。  そして月日は流れ、いよいよアンサンブルコンクール当日を迎えた。
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