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自覚
風呂から上がった純平は、リビングで待たせている梓を気にかけて、髪の毛も半乾きのままタオルを首にかけて梓の元へ向かう。
リビングに入ると、梓は母親に淹れてもらったホットミルクを飲んでいた。
「ごめん梓。待たせた・・・」
「ううん。こっちこそごめんね。こんな時間に」
時計は午後9時を過ぎていた。純平は梓の隣に座り、首にかけたタオルで髪の毛をガシガシと拭いている。
「あのね、純平くん・・・私、明日、お父さんとちゃんと話そうと思う」
「・・・うん、そうだな」
「それでね、その時、純平くんにそばにいてほしいの・・・・・・」
梓は恥ずかしいのか、顔を赤くして俯きながら純平にお願いをする。
純平は梓と二人で公園にいる時、自分がついていってもいいと言ったことを思い出した。
「いいよ、俺も一緒にいるよ。でも、おじさんに気持ちを伝えるのは梓だからな。それはちゃんと、梓の言葉で伝えるんだ」
「うん、わかった。・・・・・・ありがとう」
梓はそう言うと、ニコッと笑った。散々泣いたから、まだ目は赤く腫れているが、それでも梓が笑顔を見せてくれたことに、純平はやっと安心できた。
それから純平は、以前から梓に聞きたいことがあり、それを聞いてみようと思った。
「あのさ、梓は目の病気のことがあるから、他の人とは距離を置いていたって言ってただろ?」
「うん・・・そうね」
「確かに最初の頃は俺にもそんな態度だったし、そうだったんだろうなと思うけど、いくら花純先生の教室でお互いを認識したからって、なんで急に二重奏を持ちかけたりしたんだ?」
純平はずっと、クラスメイトと距離を置いていた梓が、なぜ自分にだけこんなに心を開いているのか疑問だった。いくら二重奏のパートナーとはいっても、自分たちの距離は明らかに近すぎると感じていたからだ。
実際、純平と梓が付き合っていると思っている同級生も中にはいた。
純平としてはそれでいいと思っても、それで梓がイヤな思いをするのは純平としても避けたいところだ。
梓はしばらく考えて「そうね・・・」と口を開く。
「私たちが出場したコンクールのこと覚えてる?」
「・・・・・・覚えてるよ」
純平の4連覇を梓に阻止されたコンクールのことを、純平が忘れるはずがない。
「あのコンクールの映像が残っていたの。純平くんが演奏している映像が。今日お父さんが見せてくれたように、あの日もお父さんが張り切って撮影していたの。ただ、映像が荒くて、純平くんの顔までは認識しづらくて・・・だから教室ですぐ、純平くんを確認することができなかったの」
それから梓は、あのコンクールの時の話を語り始めた。
梓の出番は純平の一つ前だった。
梓が演奏しているのを、次の出番の純平は舞台袖から見ていた。
梓が出す音はとても軽やかで美しく、ホール全体を完全に支配していた。純平はその演奏を聴きながら、自分が飲み込まれそうになる感覚を今でも覚えている。
そして、純平の出番になり、演奏が始まった。その純平の演奏を、今度は梓が舞台袖から見ていた。
梓は純平が、自分の大好きな尊敬する叔母の、花純の教え子であることを前もって聞いていた。だから、その教え子のバイオリンをどうしても聞いてみたかった。
純平の音色は、男性にしてはとても繊細で、でもすぐに消えることなくその場にずっと漂っているようなそんな音色だった。
(ああ、この人はとても優しい人なんだ)
梓は純平の音を聴いてそう思った。自分には到底真似できない音色。飯倉真純の音は真似できても、純平の音は真似できない。この人と一緒に演奏してみたい。でも、自分はいつ失明するかわからない。
「私は純平くんの音が聴きたくて、あのコンクールの映像を何度となく見て、聴いたの。失明しても、あなたが演奏している姿と音を思い出せるように何度も何度も・・・・・・」
純平は、まさか梓がそこまで思っているとは想像できなかった。告白をされたわけでもないのに、まるでそうされたかのような嬉しさと、恥ずかしさが込み上げてくる。それでも梓は話を続けた。
「お父さんの病院の転勤が決まって、正直、ここには来たくなかった。でも、近くには花純ちゃんがいるし、お父さんと離れたくなかったから、今の高校を受験したの。そこで純平くんに出会った」
梓は純平の目をまっすぐ見て、力強く話し続ける。
「教室に最初入った時は気づかなかったけど、自己紹介で純平くんの名前を聞いて、まさかと思ったわ。それに、いくらなんでもそんな偶然あるわけないと思っていたの。そんな時、花純ちゃんの教室で純平くんに会った。純平くんが帰った後、私はすぐに花純ちゃんに相談して、バッハの楽譜を借りた。失明する前になんとしてでも純平くんと二重奏をしたかったの」
「・・・・・・梓」
「私の我儘に付き合わせてしまったのは、申し訳ないと思っているわ。でも、私は本当に・・・・・・」
梓はまた目に涙を溜めていた。それを見た純平は、思わず梓の頬に手を添え、自分の方を向かせる。
「梓、我儘とは思わないよ。確かに最初は驚いたけど、今ではやってよかったって思っている。俺を選んでくれて、ありがとう」
梓は純平にそう言われて、心から安堵する。自分の身勝手にずっと付き合わせていると思っていたから。
そして、あんなに他人と距離を置いていたのに、純平やその両親に親切にされるたびに、自分の思いを自覚させられた。
でも梓はその思いを打ち明けることは出来ない。自分の病気がこの体にあるうちは、恋愛をしても相手につらい思いをさせるだけだと思っていたから。
そして梓は、その小さな恋心をそっと胸の奥にしまい込んだ。
純平は、思わず触れてしまった梓の頬の感触を確かめるように、親指でそっと撫でた後、名残惜しいのを我慢してゆっくりと手を離す。
もう純平は、自分で自分の気持ちを認めることにした。
自分にとって梓は、かけがえのない大切な女の子だということを。
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