続・藍澤和仁

1/1
前へ
/1ページ
次へ
人間は死ぬと、図書館に行くらしい。知らないのも無理は無い。私自身も死んで初めて知ったことだ。 生前、一度だけ国立国会図書館へ足を運んだことがあるが、そこなんかよりも遥かに大きな図書館だ。ただ、私以外の、生き物っぽいのはたった1人の司書さんだけだ。 もっとも私自身ですら、すでに死んでいるのだから生き物とは言えないのかもしれない。 司書さんは人間と言われれば人間に見えるし、言われなければ化け物のようにも見えた。 私が初めてここに来た時、黒い靄のようなものがかかった司書さんは、私に1冊のハードカバーの本を渡しながら言った。 「ここにはあらゆる人生があります。あなたも今日から、ここの住人です」 と。その見た目に反して曇りない声だった。 その本の表紙には私の名前があった。 本を開くと、私の人生があった。細大関わらず、私の人生に起こったこと、私が感じたこと、私のした選択から私の友人関係まで。 人間が死ぬと、本になるらしい。 生物的な側面を見ると人間の主食は炭水化物だが、社会的な側面を見ると人間の主食は情報だ。 その情報が詰め込まれた、言わば人生の本は、人間の全てがあると言っても過言でないように思えた。 私は私の本を読み終えた。私の記憶の通りだが、やはり忘れていることも多い。人生を思い返すと、大した人生でなかったように思える。もっと何かを、成し遂げられたような気がするのだ。 心残りも多い。今となってはそれすら、解消することもできないのだと思うと、なんだか寂しい。死後の世界には、分かりやすい形の救いは無いらしかった。 図書館を見渡した。あらゆる本が、壁一面にある。壁もどこまで続くか分からない。 日本語で書かれたものから、見たこともない文字で書かれたものまで、大辞典のような本から小冊子のような本まで、本当にあらゆる本があった。 私はどうやらちっぽけな存在だったらしい。 私のかつての悩みも、ありふれた人類の考えのひとつに過ぎないのだ。 私は本を読み漁った。それしかすることが無かったからだ。 まずは自分に近しい人間の、そして名が知られた著名人や偉人のものまで。あらゆる人生を知った。 当然だか人間は、主観的な生き物らしい。同じ事件でも、同じ人間でも見え方が皆異なる。 ある人の喜劇が別の人の悲劇だったり、なんならある人の大事件が別の人の些事であるなどザラだ。 名前を聞いたこともない私の祖先の本には、重厚なラブロマンスが描かれていた。私には無かったものだ。 そうやって私の人生に少しでも関わった本を読んでいた時、私はある一冊の本を見つけた。 その人は私と出会ったことがあったらしい。私も忘れていたが、私の落としたハンカチを拾ってくれた人らしかった。その時に見たネームプレートが僅かに記憶に残っていたらしい。ただ、それだけの人のはずである。 私はふとその一冊を開いた。それは、私の運命の一冊となった。 人間の悩みなど世界に広がったあらゆる思想のうち、ありふれたもののはずだ。それを適当にコレクションしたのが個々の人間であるはずなのだ。 だがその拾い集めたコレクションが、私のものとほとんど同じだった。私とほとんど同じ思考によっても書かれた本があった。 その一冊は、生前のその人物が作家であることを示していた。私は作家などではないが、そのような世界線の私もあったのかもしれない。 種々の小説を書くことができたその人の、どのような人でも書くことができる小説が、この本なのだ。 私は感動した。仲間を見つけたのだ。この広い、誰もいない世界で、たった1人の仲間を。 私はその本に名が挙がった全ての本を読んだ。まだ存命なのか、本を探しても存在しないものもあった。 やはり、人間とは主観的なものらしいことが再度分かった。残念ながら。 その人は、私が思うように思われて居なかったのだ。陰口を言われ、蔑まれ、罵られ、誹られ、讒謗を浴びせられるような人だったのだ。 私は唯一の理解者になれたはずだ。しかし、そうなれなかった。 どうしてなのだろう。私は自らの無力さを呪った。 しかし、幸か不幸か、心無いことを言われていたという内容は書かれていなかった。強かな人だったんだろう。それが讒謗の遠因かもしれないが。 私にはどうすることもできない。過去は変えられないし、ここでは未来も変えられない。 思い出に浸ることしかできない。思い出は私をむしろ悲しませるだけだ。 ただ、過去の寂寥を糧に、ifの話をすることしかできない。 私は既に一度死んだ人間なのだ。もう一度それを選んだところでどうということもあるまい。 司書さんは話し相手にはなってくれない。孤独なのだ。がしかし、質問にはある程度答えてはくれる。本探しなどでも助けになってくれた。 「司書さん、ここで死ぬとどうなるんですか?」 「ここで死ぬと……ですか? ええ、二冊目の本が産まれます。しかし一度目の死と違い、蘇ることはありませんがね」 それであれば寧ろ好都合だ。もう苦しむ必要はないのだ。 できることなら、劇的に、ドラマティックに、シアトリカルに、死を選びたかった。そう思うと少し残念ではある。 「あとひとつ、二冊目の本の内容を、ほんの少しでも自分で書けるだろうか」 司書さんは困惑したような雰囲気になった。 「そうですねえ、死ぬ間際にでも強く念じれば、一言くらいは遺言のように残るかもしれません」 「そうか」 なら十分だ。私は、本を積み上げた。今までに読んだ数百の人生だ。多少ぐらついたが、時間ならいくらでもある。 試行錯誤してできたピラミッド上の本の上によじ登った。中々の高さだ。 ふ、と飛び降りる。風を、重力を感じた。地面が近い。 私はあなたに、会いたかった。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加