第2話 訪問者

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第2話 訪問者

病室の窓の外に広がる空は、どこまでも青く、雲ひとつなかった。その明るさが逆に、私の心の中の空白を際立たせるようで、落ち着かない。ベッドに横たわったまま、ぼんやりとその青空を見上げていると、また同じ考えが頭をぐるぐると回り始めた。何も思い出せない。それが、思っていた以上に重く、私の心にのしかかってくる。 「ゆっくりでいい」とみんなは言ってくれる。母さんも先生も、焦る必要はないと優しく言ってくれるけど、それが余計に私を焦らせた。いったい私は、どんな人だったんだろう? 事故に遭う前の私は、何を考えて、何を感じて生きていたんだろう? 名前だけが分かるこの身体の中で、その問いだけが空回りしている。 「沙耶ちゃん、どう? 今日も具合は大丈夫?」 ドアをノックする音と共に、母さんの優しい声が聞こえてきた。彼女が入ってくると、少しだけ部屋の空気が柔らかくなるような気がする。母さんの存在は、今の私にとって数少ない安心できるもののひとつだ。 「うん、大丈夫……。体は平気だよ」 本当は、まだあちこちが痛むし、動くのも少し大変なんだけど、それ以上にこの記憶の空白が私を苦しめていた。でも、それを母さんに言ったところで、解決するわけじゃない。 「そう、良かったわ。先生も順調だって言ってたし、無理しないでね」 母さんはいつものように微笑んで、持ってきた果物をテーブルの上に置く。小さな包丁でリンゴを剥きながら、さりげなく話しかけてくる。 「今日はね、沙耶に会いたいっていう子が来るんだって。あなたの友達かしらね。さっき受付で名前を聞かれた時に、すごく慌ててたから、きっと急いで来たんでしょうね」 「……友達?」 思わず聞き返してしまった。友達? 誰だろう? 私には、友達がいたのだろうか? もちろん、そういう存在がいてもおかしくはないけど、何も思い出せないこの状況で、誰かに会うのは少し不安だった。どんな顔をして話せばいいのかも分からないし、その人が私を知っていても、私はその人を覚えていないかもしれない。 「大丈夫よ。きっと沙耶のこと、ゆっくり思い出せるように話してくれるわ」 母さんはそう言って、私を安心させようとする。けれど、胸の中にある小さな不安は拭い去れなかった。 その時、ノックもせずに突然ドアが勢いよく開いた。 「よう、沙耶!」 軽い声と共に、現れたのは、見たことのない男の子だった。見たことがない、というのは正確じゃないかもしれない。顔は、どこかで見たことがあるような気がする。でも、その記憶はぼんやりとしていて、はっきりとは思い出せなかった。 「え、誰……?」 思わず口を開けて尋ねると、男の子は悪戯っぽく笑いながら、ベッドの横に立った。 「あれ? マジで覚えてないの? 俺だよ、悠斗! 君の彼氏」 彼氏? 悠斗? 頭の中で、その言葉を反芻しても、何も引っかかるものがない。ただ、目の前に立っている彼は、私の言葉を全く気にすることなく、さらに話を続けた。 「まあ、記憶なくしちゃったって聞いてたから、仕方ないか。けど、なんか新鮮だな。まさか君が俺のこと忘れるなんてさ。いつもは俺が怒られてばっかだったのに、こうやって再スタートするのも悪くないかもな」 悠斗は軽い調子で笑いながら、隣にある椅子に腰を下ろした。なんだかその様子が自然すぎて、彼が私のことをよく知っているのは確かなのだろうと感じた。でも、私は彼のことを全く思い出せない。混乱する気持ちを隠しきれずに、私は困ったように母さんを見た。 「沙耶、悠斗くんはあなたの恋人だったのよ。事故に遭う前からね。彼も心配して、すぐに駆けつけてくれたの」 母さんの説明で、少しだけ事情は飲み込めた。悠斗という男の子が私の彼氏で、事故のことを知って心配してくれている。でも、記憶がない私にとって、その事実はなんだか現実味がなかった。 「そう……なんだ」 思わず口から出た言葉は、あまりに薄っぺらく感じた。悠斗はその反応を少しだけ不思議そうに見たが、すぐにまたニヤリと笑ってみせた。 「まあ、気にすんなって。記憶が戻るまで待つよ。俺も時間あるしさ、これから毎日顔出すよ。嫌だって言っても来るから覚悟してよな」 軽い冗談みたいにそう言って、彼は私の頭をぽんぽんと軽く叩く。その仕草に戸惑いつつも、彼が本当に私に対して優しく接してくれているのは伝わってきた。けれど、それと同時に、自分の中に生まれた違和感を拭い去ることはできなかった。 「……ありがと」 お礼を言うのが精一杯だった。彼の笑顔は本物だし、私に対する思いやりも伝わる。だけど、彼が私の「彼氏」だという実感はまるで湧かない。今の私はただ、彼の存在を受け入れるしかなかった。 「よし、じゃあ今日は顔見せだけにしとくよ。あんまり無理させると母さんに怒られそうだし」 悠斗はそう言って立ち上がり、さっと立ち去ろうとした。その後ろ姿を見送る母さんの顔には、少しの安堵が浮かんでいるように見えた。 「悠斗くん、ありがとうね。沙耶のこと、よろしくお願いね」 母さんが声をかけると、彼は振り返って軽く手を振った。 「おう、任せてよ。俺が面倒見るからさ」 そう言って、彼は軽やかに病室を後にした。ドアが閉まった瞬間、部屋の中が静まり返る。私と母さん、二人きりになった空間が、妙に広く感じられた。 「良かったわね、悠斗くんがいてくれて。きっと色々と支えてくれるわよ」 母さんはそう言って、私を励まそうとする。でも、私はただ曖昧に頷くだけだった。彼の存在が支えになるのかどうかは、今の私には分からない。けれど、彼がこれからも病室に来ることだけは確かだろう。 「……私、本当に彼のこと忘れてたんだ」 ぼそりと呟いたその言葉に、母さんは優しく微笑んで言った。 「無理しないで、少しずつでいいのよ。記憶は必ず戻るわ」 けれど、私はその言葉を信じることができなかった。記憶が戻るということがどういうことなのか、今の私には全く分からない。ただ、この空っぽの頭の中で、悠斗という彼氏を受け入れることができるのか、それすらも自信が持てなかった。 彼は優しい。けれど、私の中にある何かが、それをすんなりと受け入れられないでいるのだ。
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