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第3話 記憶の欠片
病室の窓から見える空は相変わらず澄み渡っていて、時間の流れが緩やかに感じられる。だけど、私の中では時間が止まったままだ。記憶の欠片すら見つからないこの状態に、少しずつ焦りが募っていく。
昨日会った悠斗という男の子。彼が私の彼氏だったという事実は、母さんの言葉と彼自身の態度からも信じざるを得ない。だけど、心のどこかで、彼の存在が浮いているように感じていた。彼は優しいし、明るく振る舞っているけど、それが本当に「私の彼氏」であるという実感にはならない。記憶が戻れば、この違和感も消えるのだろうか。
そんな考えを巡らせていると、また病室のドアが軽くノックされた。
「おう、今日も来たぞ!」
悠斗だ。昨日と同じように軽い調子で入ってきた。まるで何事もなかったかのように振る舞っている彼を見て、私は少しだけ気持ちが楽になったような気がした。彼は明るい。だからこそ、私も深く悩まずに済むのかもしれない。
「沙耶、今日はちゃんと持ってきたよ。お前、記憶なくしちゃったってことだからさ、俺との思い出を見せてやろうと思ってさ」
彼はスマホを取り出して、私の方に差し出した。
「これ、俺たちが付き合ってた頃の写真とか動画だよ。お前が覚えてないなら、これで少しでも思い出せたらなって思ってさ」
スマホの画面に映し出されたのは、二人で並んで撮った写真だった。駅前のイルミネーションの下で、悠斗と一緒に笑っている私の姿がそこにあった。画面の中の私は、まるで別人のように楽しそうで、そして幸せそうだ。
「これ……私?」
信じられない気持ちで聞くと、悠斗はニヤリと笑って頷いた。
「そう、お前だよ。ほら、こっちも」
彼は次々と写真をスクロールし、いくつもの思い出を見せてくる。遊園地での写真、二人でご飯を食べている写真、そして一緒にプリクラを撮ったものもあった。どれも私が笑顔で、悠斗に寄り添っている。
「俺たち、こんなに仲良かったんだぜ。お前は俺のこと、怒ることもあったけどさ、結局は仲直りしてこうやって笑ってたんだよ」
悠斗はそう言って、スマホの画面を見つめる。その表情は、いつもの軽さとは違う、少しだけ真剣なものだった。
「だからさ、記憶なくしちゃっても、俺たちのこと忘れないでほしいんだよな。俺は、お前との時間を大事にしてるから」
その言葉に、私は何か答えなければならない気がした。けれど、どう答えていいか分からなかった。ただ写真の中の「私」が、今の自分とはまるで違う存在のように感じられて、戸惑いだけが広がっていく。
「……なんか、すごく楽しそうだね、私」
そう絞り出すように言うと、悠斗は頷いて笑った。
「そうだよ、楽しかったんだ。俺たち、いろんなところに行ったし、いろんなことした。お前が笑ってる顔が、俺は好きだったんだよ」
その言葉を聞いて、私の中に微かな感情が芽生えた。彼の言葉が嘘だとは思えない。写真や動画は、確かに「私」がそこに存在していて、悠斗との時間を楽しんでいる証拠だ。でも、今の私はその感情に触れることができない。ただ、写真の中の私が笑っているという事実だけが、頭の中で空回りしていた。
「ありがとう、見せてくれて」
私がそう言うと、悠斗は満足げに頷いた。
「おう、これで少しは俺のこと思い出してくれたら嬉しいけどな。まあ、焦らなくていいさ。お前が記憶取り戻すまで、俺はずっとそばにいるからさ」
その言葉が、まるで約束のように響いた。彼は本当に優しい。こうして毎日来てくれて、私のことを気にかけてくれる。でも、だからこそ私は、自分の中にある違和感を無視できないでいた。
彼は「彼氏」だと主張しているし、その証拠も見せてくれた。それでも、心のどこかで引っかかるものがある。記憶がないから、すべてを信じるしかないのだろうけど、その違和感を無視することができなかった。
「……じゃあ、また明日も来るよ」
悠斗は立ち上がり、スマホをポケットに戻して病室のドアに向かった。ドアの前で振り返り、軽く手を振ってから出ていく。病室に残された私は、ベッドの上でただぼんやりと彼の言葉を思い返していた。
++++++++++
退院の日が近づいていた。先生からの説明を受け、母さんも少しずつ退院後の準備を進めていた。外に出られることは嬉しい反面、これからの生活に対する不安も大きかった。学校に戻ること、友達やクラスメートと再び接すること。記憶を失ってしまった私が、元通りの生活を送れるのだろうか。
悠斗は毎日病室に顔を出してくれていた。彼の存在が、次第に私の日常の一部になりつつあることを感じた。彼の話を聞いたり、写真や動画を見せてもらったりして、少しずつ彼との過去が形作られていくようだった。けれど、それはあくまで「情報」としてであり、心の中に響く感情としてはまだ遠い。
退院の日の朝、母さんが病室にやってきて、手続きを済ませてくれた。
「今日からは家に帰れるわよ、沙耶。少しずつ慣れていけばいいのよ」
母さんの言葉に頷きながら、私は自分の荷物をまとめる。病院で過ごした日々は、不安と戸惑いの連続だったけれど、ここを出たらさらに新しい現実が待っている。
悠斗が迎えに来ると言っていた。彼は私の退院を喜んでくれて、これからも一緒にいることを約束してくれた。私はその言葉を信じようとした。記憶が戻らなくても、彼がそばにいれば大丈夫だと。
「じゃあ、行こうか」
母さんの言葉で、私はベッドから立ち上がり、ゆっくりと病室を後にした。退院の日差しが眩しく、私は一歩ずつ新しい日常へと踏み出していった。
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