第1話 目覚め

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第1話 目覚め

目が覚めた時、私の頭は白く、音もなく真っ白な世界の中に浮かんでいるような感覚だった。まぶたの裏が重たくて、まるで寝ぼけたまま水の中に沈んでいるみたいな感覚。何もかもが遠くに感じて、自分がどこにいるのかすら分からなかった。頭の中で何かを掴もうとしても、まるで霧の中で手を伸ばすように、指先がどこにも届かない。目を開けようとした瞬間、強烈な光が差し込んできて、思わず瞼を閉じた。 「……沙耶、聞こえる?」 母の声だ。ぼんやりとした音の中に、それだけがはっきりと浮かび上がった。声を出そうとしても、口の中が乾いていて何も言えない。ただ、ああ、母さんの声だ、と気づいただけで、少し安心した。 「沙耶、よかった……」 また母さんの声がした。安堵に震えた声。私はゆっくりと瞼を開けて、薄暗い天井が目に入った。なんとなく視界がぼやけていて、全てが遠くにあるような気がする。ゆっくりとまばたきを繰り返し、焦点を合わせようとするけど、どうしてもはっきりとは見えない。 「……ここ、どこ……?」 ようやく出した声は、自分のものとは思えないほどかすれていて、力がなかった。目をもう一度閉じて、今度はゆっくりと開けると、白い天井とその下に吊るされた蛍光灯がぼんやりと見えてきた。そして、横には母さんがいた。彼女の顔が泣きそうに歪んでいて、けれど笑っていた。 「病院よ、沙耶。大丈夫、手術は無事に終わったからね」 病院? 手術? 頭の中でその言葉を反芻するけれど、何が何だか分からない。ただ、母さんの声を聞いているうちに、少しずつ体が戻ってくる感覚があった。まるで深い井戸から引き上げられているような気分だ。 「どうして……」 何があったのか、何をしていたのか、何も思い出せない。自分がここにいる理由も、どうしてこんなに体が重くて痛いのかも分からない。ただ、頭がぼうっとしていて、言葉を探しても、まるで霧の中で迷っているような感覚だけがあった。 「交通事故に遭ったのよ。覚えていないかもしれないけど、もう大丈夫。ちゃんと治るわ」 母さんはそう言ったけれど、私は事故の記憶も、その前のこともまるで思い出せなかった。事故……? 私は、そんなことが起きたの? 頭の中に浮かんでくるのはただの空白だった。 「事故……」 呟くようにその言葉を口にしてみる。実感がない。記憶がぽっかりと抜け落ちていて、頭の中は真っ白なまま。事故に遭ったなら、私はどこで何をしていたのだろう? 誰かと一緒だったのだろうか? どこに向かっていたのだろう? 質問ばかりが頭の中を巡っていくけど、どれも答えが出てこない。 「何も覚えていないの?」 母さんの問いに、私はゆっくりと首を横に振った。覚えていない。何も。自分の名前さえ、この瞬間はっきりとは思い出せなかった。 「大丈夫よ、無理に思い出さなくてもいいの。ゆっくりでいいから、焦らないで」 母さんは私の手を優しく握ってくれる。あたたかい。その感触だけが、今の私をこの場所に繋ぎとめているような気がした。母さんがいて、私がここにいるという事実だけが、唯一確かなもののように思えた。 「先生がすぐに来るわ。少し待っていてね」 母さんが立ち上がり、部屋のドアに向かって歩いていく。その背中をぼんやりと見送りながら、私は頭の中を整理しようとした。けれど、考えれば考えるほど、自分が何者なのかさえも曖昧になっていく。名前……私は、誰? 頭の中にぽつりと浮かんだのは、「沙耶」という名前。それだけが、私に残された唯一の手がかりだった。 時間の感覚も曖昧で、どれくらい経ったのかも分からないうちに、ドアが開く音がした。白衣を着た医者が入ってきて、私のベッドのそばに座る。 「山田沙耶さんですね。こんにちは、私は川村と言います。あなたの主治医です」 そう言って、優しい笑顔を向けてくれる。川村先生と名乗ったその人の顔を見ても、やはり何も思い出せない。けれど、その声と表情は安心感を与えてくれた。 「少しだけお話をしましょう。事故に遭ったことで、頭に外傷を負ってしまいました。幸い、命に関わるような状態ではありませんでしたが、手術が必要でした」 先生の言葉を聞きながら、私はただ頷くだけしかできなかった。自分が手術を受けたという事実も、まだ実感が湧かない。体は確かに重く、あちこちが痛むけれど、それが「手術を受けた」ということに繋がっているのかさえ、今の私には曖昧だ。 「今、記憶が少し混乱しているかもしれませんが、それも自然なことです。ゆっくりと回復していく中で、少しずつ思い出していけるでしょう。焦らずに、今は体を休めることが一番です」 先生の言葉を聞いて、私はふと気づいた。記憶が混乱している、ということは、何かを忘れているということ。私には、何か大事なことがあるのではないか? そんな予感が胸の中で広がっていく。 「……忘れてる、ことがあるんですか?」 震える声でそう尋ねると、先生は静かに頷いた。 「事故のショックで、記憶に影響が出ている可能性があります。ですが、全てが失われたわけではありません。今は、ゆっくりと思い出していくことが大切です」 先生の言葉を聞きながら、私はその意味を理解しようとした。記憶が戻らないということは、今の私にとって一番恐ろしいことかもしれない。けれど、それが現実だということも分かっていた。 「ゆっくり……そうですね」 そう言って、私は目を閉じた。頭の中で何かが動き出す気配がある。けれど、それはまだ遠く、ぼんやりとしたままだ。何を忘れているのか、何を思い出さなければいけないのか――その答えは、まだ見つからない。 ++++++++++ その夜、病室の静けさの中で、私は一つだけ確かなものを見つけた。それは、自分が「山田沙耶」という名前の少女だということ。けれど、それ以外のことは、まだ真っ白なままだった。
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