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*1 サイダーの泡より儚い恋心に気づいてしまったから
「だーから、ここのXの値がこれでー、んで、Yがこうなってー……わかる?」
「……全ッ然」
「おっまえいい加減にしろよな! こんだけ教えてもらっといて全然ってないだろ!」
「いってー! グーで殴るなよ! アホになるだろ!」
「それ以上なんねぇよ。殴った方が良くなるんじゃねぇのか、アタマ」
「ナツ! お前の兄ちゃんどうにかしてよ!」
定期テスト前恒例になっている勉強会の、同じく恒例となっている兄ちゃんと聡ちゃんのケンカという名のイチャつきに僕は溜め息すら出ない。
僕と兄ちゃんの幼馴染である聡ちゃんは、彼らの二歳下の僕が言うのもなんだけれど、あんまり勉強が得意じゃない。
だからテスト前になるとぼくの兄ちゃんに教わりに来るんだけれど……これが兄ちゃんがどんだけ教えてもさっぱりみたいなんだ。兄ちゃんに教えてもらいたくてワザとやっているのか? ってくらいに。
だって前回の中間テストも、数学を何時間も付きっ切りで教えてもらったのに、三十何点とかだったとか言っていたもんね、聡ちゃん。
とは言え、兄ちゃんも聡ちゃんの呑み込みの悪さに腹を立てつつも、教えるのを止めずにテストのたびに勉強見てやっているから、やっぱりこうやってイチャつきたいからなんだろうなとしか思えないんだよね。
ひとの気も知らずにイチャつくなよなー、と思いつつも、しあわせそうにしているふたりを前に僕は決まってこう言うようにしている。
「はいはい、イチャつくのは勉強終わってからにしなよふたりとも。それとも僕、席外した方がいい?」
「何言ってんだナツ! 斎藤だぞ、相手は」
「そうだよ、ナツ。いくらなんでも梶井となんて趣味悪いよ」
「男同士なのは良いの?」というツッコミができないほどに、ふたりして顔を赤く染めて全否定するのがまたあやしいのに……。まあ、あえてそこも何も言わないけれどね。
僕が保育園年長の春、小二だった兄ちゃんのクラスに転校生としてやって来たのが聡ちゃんで、家も近いからすぐに僕も含めて仲良くなったんだ。
近くの雑木林で基地ごっこだとか、公園で三人だけの野球とか、そういうので遊んでいて、毎日どれだけ一緒にいても飽きなかった。
そして何より、兄ちゃんは僕にとって憧れのヒーローでもある。
いつだったか、まだ僕が小学校に上がる前だったと思う。近所の公園の大きな木に登ったはいいが降りられなくなったことがあったんだ。
「ナツー、大丈夫かー?」
一緒に昇っていた聡ちゃんはさっさと降りちゃって、僕は急に目に飛び込んできた高さと不安定な足許にたちまち腹が冷えてように動けなくなった。
「無理ぃ、降りれないよぉ。」
「降りれるって!」
「やだぁ! 兄ちゃーん! 助けてぇ!」
同じ公園で他の友達とキャッチボールをしていたはずの兄ちゃんに向かって無意識に助けを求めていた。届くかどうか、届いても助けてくれるかどうかわからないのに。
半泣きどころかほぼ泣いていた僕の許に、「なーに泣いてんだお前は」という声がしたのは、助けを求めて割とすぐだった気がする。
恐る恐る下を見ると、僕の足許に困った顔をして笑っている兄ちゃんがいた。その笑顔が目に入った瞬間、僕は助かった……と心から安堵してますます泣いたのは憶えている。
それからどうやって下まで降りたのかは憶えてないけれど、兄ちゃんがこう言ってくれたのは憶えている。
「大丈夫だ、俺がついてる。ちゃんと降りられるからな」
その言葉が僕をすごく安心させてくれたのだ。これ以外にも、イタズラをした僕を庇ってくれたり、叱られたら慰めてくれたりして、兄ちゃんが僕のピンチを救ってくれたことはよくあった。
そういったことが積み重なったこともあって、兄ちゃんは僕にとっていまでもヒーローなのだ。
でもそのやさしさが僕だけに向けてじゃないことに最近気づいてしまった。
中学にふたりが入る頃に一緒に楽器――兄ちゃんがベース、聡ちゃんはギター――を始めて、バンドを組みだした頃から、僕抜きのふたりだけの時間が増えていった。
そのせいなのか、その頃からふたりの距離というか、ふたりが醸し出す空気がいままでと違うようになっているのを感じて、その頃から兄ちゃんのやさしさは僕だけに向けられているものじゃないんだと思うようになったのだ。
兄ちゃんが向ける眼差しの先にはいつも聡ちゃんがいて、聡ちゃんはそれを当たり前に受け取っている。僕に向けるよりも兄ちゃんは甘い表情をしているし、聡ちゃんも嬉しそうな顔をしている。きっとお互い無意識なんだろうけれど。
だからと言って、いきなりふたり手を繋ぎ出したりとかはさすがにないんだけれど、何故か中学に入ってから突然お互いを名字で呼び合うようになった。それまでは「賢吾」「聡太」って呼び合っていたのに。僕のことは相変わらず、「ナツ」とか、「夏樹」とか呼ぶのに。
突然のよそよそしさはかえって嘘くさくて、僕にだってふたりが何かをごまかしているような気がしてしまう。
この前母さんに、兄ちゃんたち名前で呼び合わなくなっちゃったね、って言ったら、「もう子どもじゃないからじゃない?」って言われたんだけれど……それが理由な割にはふたりは相変わらず小学生みたいなケンカをしょっちゅうしている気がする。それも、最近はお互いが女子に告白されたとかでどうとかでケンカするんだよね。
べつにお互いだけ見てれば相手が誰に告白されようが付き合おうがどんと構えていれば良くない? って僕は思うんだけれど……なんか、そういうことですごくもめる。
「ナツ、斎藤の今日部活何時終り?」
「僕が知るわけないじゃん。兄ちゃんが自分で聞きなよ」
「聞けねーからナツに聞いてるんだろ。わかんないなら聞いて来いよ」
素直に謝って自分で聞けばいいのに、僕を介して面倒くさいやり取りを数日して、それから近所の公園で仲直りするんだよね。すごく回りくどい。
ケンカしている時の兄ちゃんってすっごくイライラしていて怖いんだけれど、聡ちゃんと仲直りするとあからさまに機嫌が良くなるのもどうかと思う。
巻き込まれて腹が立つから、いっそずっとこのままふたりがお互いに背を向け合っていればいいのになんて思ってしまうけれど、やっぱりふたりは揃っているのが一番しっくり来るのが不思議だ。
聡ちゃんも聡ちゃんで、兄ちゃんとケンカしている時はあからさまに不機嫌だったりするから、そういうのを何回も見ていたら……ああ、ふたりってもしかしてお互いのことを? と、思うようになったというわけだ。もちろんただの僕の憶測でしかないんだけれど、とにかくふたりは一緒にいるのが一番なことはよくわかる。
それはわかっているのに、ふたりが仲直りして並んで歩いていたりするのを見た時のぼくの感情をどう言っていいのか、未だによくわからない。仲直りして嬉しいのか、仲直りされて悲しいのか、悔しいのか。
「あー! 斎藤! てめぇ、俺のジュース飲んだだろ!」
「ひと口だけじゃん~」
「半分も飲んでおいてひと口もくそもあるか! 返せ!」
「ええー、無茶言うなよぉ」
「……口移しでもすれば?」
「ナツ! お前馬鹿か!」
「ナツ、なに言ってんだよ!」
ちょっと冗談で言ったことに、ふたりは過剰反応してまた真っ赤になっている。
そういうとこだよ、ふたりとも……よくこれで周りがふたりの関係をあやしまないよなぁ……見て見ぬふりしているのかな……やっぱり僕が兄ちゃんを想っているから、僕が聡ちゃんを羨んでみているから気付いてしまうだけなんだろうか。
だからと言って、散りばめられている状況証拠を掻き集めたら見えてくるだろう兄ちゃんの本当の姿を想像すると、僕はちょっと目を伏せてしまう。
だって、僕にとって兄ちゃんはいつでも何でもできる僕だけのヒーローで、憧れで……そしてそれ以上に大切な存在だから、なんかそういう恋愛ごとで狼狽えたりデレデレしたりする姿を見たくないんだ。なんか、ヒーローっぽくないから。
でも、聡ちゃんは僕にとってもう一人の兄ちゃんみたいな存在でもあるから、聡ちゃんは聡ちゃんで大事に思っている。そして兄ちゃんを心から笑顔にできるのは僕じゃなくて、聡ちゃんであることも僕は知っている。
ふたり揃っている姿を見るのは僕には当たり前の眩しい光景で、悔しいけれど、お似合いだと思う。
この突き付けられる現実を、僕はどう受け止めていいのかわからなくて、いつも俯いてしまう。
「おい、ナツ。もう一杯ジュース持ってこい」
「ええー、兄ちゃん行きなよぉ」
「あ、ナツ、俺のもお願い」
「聡ちゃんまでぇ」
合法的にふたりきりになりたい魂胆がみえみえなのが腹立たしくて、兄ちゃんの命令を拒もうとしたんだけれど、ほんの一瞬視線を交わしてすぐに反らされたふたりの空気が砂糖菓子みたいだったから、仕方なく部屋を出ることにした。
(……このふたり、本当にまだ付き合ってないのかな?)
部屋を出て行って階下の台所までジュースのお代わりをもらいに行きながら、付き合っていたらどんだけ胸が焼けるようなことになるんだろうな、と僕は考える。
「……それはそれでめんどくさそうだなぁ……」
ふたりの取り巻く環境も、そばにいる僕の気持ちも、きっといまよりも複雑に絡み合ってしまうだろう。
二つのコップに冷蔵庫から出したよく冷えたサイダーを注ぎ分け、僕は溜め息をつく。
僕のカッコいいヒーローの兄ちゃんは、どうやら同級生の男子が好きみたいだ。しかも、相手も兄ちゃんが好きみたいで、そして僕もまた、そんな兄ちゃんを――
(……もし、僕が聡ちゃんの立場だったなら、どうするんだろうなぁ……やっぱ、付き合いたいって思うのかな……)
兄ちゃんと聡ちゃんが付き合いだすのは時間の問題だろうけれど、もし本当にそうなったら、僕はどうしたらいいんだろう? いままでのように兄ちゃんと聡ちゃんに話しかけたり遊んだりとか、できるのかな……
わからない。でも、誰かに相談していいのかもわからない。だってどれも僕の憶測でしかないんだから。
ただ一つ言えるのは――僕は、兄ちゃんにしあわせになって欲しいということ。できれば、聡ちゃんも。それだけは確かなんだ。
確かなんだけれど……それを貫いていくにはあまりに兄ちゃんも僕も子どもで無力だったし、何も知らなすぎる。
「どーしたら兄ちゃんがしあわせになれるんだろうなぁ……」
自分の分のコップにサイダーを注いで、僕はそれをひと口飲む。しゅわしゅわした感触が喉を通って弾けて消えた。
台所の窓の外では濃い色の夏空が広がっていて、テストが終わったらやってくる本格的な夏を思わせる。
誰一人傷つくことなくしあわせになれることを考えながら、僕はもうひと口サイダーを飲んだ。
「ナーツー。ジュースまだかー」
「んあーい、いま行くよー」
二階の兄ちゃんの部屋から兄ちゃんの声がして、僕は慌ててコップを載せたトレイを持って階段を上がっていく。
(……部屋のドア開けてふたりがちゅーとかしてたらどうしよう)
そんなくだらない心配をしながら、僕は兄ちゃんと聡ちゃんの待つ部屋に戻っていった。
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