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*3 モテるコミュ強の圧に負けたことで招いた顛末
「わー、梶井くんホントに絵が上手いんだねぇ。すごーい」
美術の時間、中庭で一人風景のスケッチをしていたら、不意に後ろから声をかけられた。
僕は小さい頃から絵を描くのが好きで、割と得意な方だと言う自覚もある。将来絵に関係する仕事に就きたいなと思うくらいに絵を描くことが好きだ。
だから、いまのも通りすがりのクラスメイトか誰かが声をかけたんだろうと思って軽い気持ちで振り返って、飛び上がりそうになった。
華奢で色が白くて色の薄い長い髪は三つ編みにされていてすごくきれいで、長い睫毛の目許はいつもきらきらしていて、その上人当たりもいい――通称・学年一モテる女子、橋本萌花が立っていた。
「は、橋本さん?!」
思いがけない陽キャな人物の登場に素っ頓狂な声をあげてしまった僕を、橋本さんはくすくすと笑って見ている。
橋本さんは他の小学校出身で初めて同じクラスになったんだけれど、入学当初からとにかくかわいいことで有名だ。
兄ちゃんと聡ちゃんが男子部門でのモテの上位なら、彼女は女子部門……いや、もしかしたら性別関係なく学校一モテている可能性もある。
そんな橋本さんが何か言いたげにかわいらしい目をして上目遣いで僕を見つめてくる。
――なんだろうなぁ……まあ、雰囲気で大方予想はつくんだけれど。
「ねえ、梶井くんにお願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
「僕に?」
僕より少し背が低い橋本さんは、僕の方を下からうかがうように見上げてきながら、もじもじと何か言いたげにしている。
正直、僕はどちらかと言えば陰キャな方だと思う。見た目もパッとしないし、スクールカーストでも真ん中より下の方、って感じだし。
それなのに彼女がこんな僕に用事があると言うのはまあ、だいたい内容の予想はつく。
彼女の歳の割に大人びた雰囲気からして、今回は愛嬌あるやんちゃな聡ちゃんかなぁ……なんて思っている僕に、彼女はこう言った。
「うん。あのね、梶井くんって、お兄さんいるでしょ?」
「へ?」
「あれ? 違った? 三年六組の、梶井賢吾先輩って、お兄さんじゃないの?」
「あ、ああ……兄ちゃ……兄貴、だけど……」
予想は外れて今回は兄ちゃんの方への“おつかい”のようだ。
毎度ながら本当に無駄にモテるよなぁ……そしてどれも断っちゃうのに。
橋本さんでもやっぱり断られちゃうのかなぁ……そんなことなんてかけらも気づいていない橋本さんは、きらきらしている眼を更にきらきらさせて、僕の手なんて握ってきてこう言ってきたんだ。
「わあ! そうなんだ! あのね、親戚から遊園地のペアチケットもらっちゃって……折角だから、先輩と一緒に行きたいなーって思ってるの」
「い、一緒に?」
それっていわゆるデートをしたいってこと? いままでなら好きだと伝えて欲しいとか、伝えたいから呼び出してくれとか、手紙を渡してくれとかっていうのだったんだけれど……流石学年で一番モテる女子・橋本萌花……告白よりも先にデートのお誘いと来るか……
思いがけない頼まれごとに僕がぽかんとリアクションもせずにいると、またもや橋本さんは不安そうに目許を潤ませて僕を見てくる。
「それとも、もう先輩には誰か付き合ってる人がいたりする?」
「いや、いない……はず……」
「そうなんだぁ! じゃあこれ、チケット。来週の日曜日に駅前の噴水のところで十時に待ってるって伝えて!」
「え、で、でも……」
「お願い!」
僕の手を握る橋本さんお手の力が強くなっていく。迫りくる潤んだキラキラの目力に僕は正確な判断力が機能不全になっていて……気づけばデート計画にうなずいて、兄ちゃんを誘い出す羽目になっていた。
「じゃあね! ありがとー!」と、機嫌よく去っていく彼女の姿をぼんやり見送るぼくの手には、一枚のカラフルなチケット。モテる人間の圧というか押し切る力を甘く見ていた……
「ど、どうしよう……」
勢いに流されてうっかり引き受けてしまった案件に呆然としたまま、僕は描きかけのスケッチを前に立ち尽くす。
絶対兄ちゃんに殴られ……るかどうかはわからないけれど、確実にブチギレられる案件を引き受けてしまったことを猛烈に後悔しながらも、「あれは断れないよ……」と、自分を擁護しながら溜め息をつくしかなかった。
美術の授業以降、僕は橋本さんから押し付けられたチケットをポケットに入れたままずっとどうやって兄ちゃんに話を切り出そうかで頭がいっぱいだった。
家に帰ってからもゲームをする気にもならなくて、部屋でぼーっとチケットを眺めて溜め息ばかりだ。
チケットの行き先は地元ではベタな初デートスポットとしてすぐに名前が上がるほど有名なプリオランドという中規模な古い遊園地で、贅沢をしなければ中学生の小遣いでも行けるくらいだ。
(……なんでこれ僕が持っているのに、一緒に行くのは橋本さんなんだろう……)
チケットが手元にありながらも自分のものではないし、僕はそのデート企画にほぼ関係ないという、バグのような現象に頭がついていかない。
僕が兄ちゃんと一緒に行けたらいいのに……と、一瞬考えたけれど、それからすぐ兄ちゃんと橋本さんが並んで歩いているのを想像してしまい、気分が沈んであまり意味がない上に余計なダメージしか受けなかった。
何度目になるかしれない溜め息を盛大に吐いていると、「ナツー、メシだってよ」と、兄ちゃんがいきなり部屋に入ってきて、僕は思わず変な声をあげて飛び起きてしまい、兄ちゃんが呆れた顔をされた。
「何してんだお前」
「あ、や……ご飯?」
「おう、母さんがメシだって……ん? なんだそれ?」
「え、あ」
目ざとく僕の手許のチケットを見つけた兄ちゃんは、僕が止める間もなくそれを取りあげる。
返して! と、言うにしても、元々兄ちゃんに渡さなきゃいけないものだから、そういうのはどうなんだろうとためらっていると、「どうしたんだこれ?」と、訊かれた。
だけど、すぐに答えられなくて、どうしよう……なんて言えばいいんだろう……橋本さんには約束しちゃったようなものだし、でもだからってデートに誘われたよって言っていいのかもわからないし……と、答えに詰まってしまった。
「ナツ?」
兄ちゃんの方を見たまま何も言えなくなってしまった僕の顔を兄ちゃんが覗き込み、その目には罪悪感とプレッシャーでひどく怯えた表情の僕が映し出されている。
ちゃんとしたことも言えない、気の利いた嘘も付けない、なんて情けないんだろう……僕は自分が惨めになってきて泣きそうだ。
「……もらった、んだ、それ」
「へぇ、誰から?」
「同じクラスの、女子から」
「お、デートかよ! よかっ……」
「行くのは、兄ちゃんだけど」
「……は?」
日頃あまりぼくの浮いた話を聞かないせいか、兄ちゃんは一瞬すごく嬉しそうな顔をしたけれど、僕が本当のことを告げた瞬間、眉間にしわを寄せて疑問符だらけの表情に変わる。
重たい沈黙が部屋の中に漂う。何か問うような眼差しを向けてくる兄ちゃんの視線から逃れるように顔を背けると、「……どーいうことだよ、夏樹」と、すごく低い怖い声で名前を呼ばれた。
兄ちゃんが僕を「ナツ」じゃなくて、「夏樹」と呼ぶとき、それは最高潮にブチギレている時だ。
僕は蛇ににらまれた蛙みたいに冷や汗をびっしょりかきながら、兄ちゃんの顔の方を見る。情けない顔をさらしたまま。
「どーいうことだ、夏樹。なんで俺が、お前のクラスの女子とプリオランドに行かなきゃなんだ?」
「え……っと、それは……あの……」
「ナーツーキー?」
――ああ、もう駄目だ……僕は橋本さんに嘘をついて兄ちゃんの代わりになることも、兄ちゃんに嘘をついて橋本さんに会わせないようにすることもできない……正直にすべてを白状するしかない。
階段の下の方でなかなか夕飯に降りてこない僕らに早く降りて来いと呼ぶ母さんの声がする。
兄ちゃんはそれに、「いま行くー」と、大声で返し、そしてぼくの方を再び振り返る。
「メシのあと、俺の部屋に来い、このチケット持って」
「……はい」
僕に待ち受けている結末が何であるかはもう判り切っているけれど、静かに怒りながら僕を見据えてくる兄ちゃんの視線はすごく怖くて、軽く震えるほどだった。
まるで気分は死刑宣告される罪人。階下で待っている夕飯は最後の晩餐のように思えてならなかった。
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