おもいで

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 なにしゃべってもええっていうから来たんやけど。  テレビの生放送ですので、発言には配慮していただきますが。  ふん。わしが相場師なんは知っとるやろ。品なんかないで。  さすがは人食い半兵衛といわれるおかたです。司会の私もすでにペースを……。  うるさいな。前置きはもうええ。これや。  あなたの思い出の一冊、ですね。  この番組では各界で成功なされたかたに……。  どうでもええこと長々と話す男やな。  あんた、相場張ったことないやろ。  は、はい。  相場はな、一瞬一瞬が勝負なんや。  そんなチンタラしゃべっとったら、命いてまわれるで。  失礼いたしました。そちらは百科事典ですか。  おう、これの押し売りをしとったんは、日本がようやく、焼け野原から立ち直ってきたころや。  あの、押し売りって……。  わしがまともな道、歩いてきたとでも思とんのか。  あのころはな、ヤミ成金やあこぎに儲けた田舎名士どもが、ゼニにぎっとったんや。  その下衆野郎からゼニまき上げるために、毎日毎日、重たい本かついで足を棒にして歩きまわった。  その努力が今の。  アホか。  額に汗して働くとはなんと愚かなことかと身に沁みたんや。  必死でやっても一冊も売れへん。  ある日、元締めから怒鳴られた。おまえどのツラさげて帰ってきとんじゃ、とな。  完全に歩合(ぶあい)やねんから、文句言われる筋合いもあらへん。せやけどまともな世界とちゃうからな。  詐欺と押し売りの集団や。その元締めともなれば、下っぱ殴り飛ばすんも仕事のうちや。  わしも一発食らったわ、辞典でな。横っ面はたかれて首もげたかと思た。  頭きたでえ。  ひっくり返った床にはもっと大きな辞典が積まれとったんや。  だてに戦争行ってへんで。  戦場ではな、汚い奴が生き残るんや。  正々堂々なんか死ぬだけや。だまし打ちで敵を(ほうむ)るんが手っ取り早いんや。  後ろから元締めに襲いかかったったわ。この百科事典ふり上げて。  おもくそ頭に食らわしたったら、首の骨がへし折れる手応えあったで。  ええ音しよったわ。  血も派手に噴き出してな。ぶっ倒れて、口からあわ吹いて、痙攣してけつかる。  ざまあみさらせ。笑いがとまらんかったで。  あと何回かどついて、きっちりトドメ刺してな。  なに? 殺人やと。  ゴロツキ同士で殺し合いして、なにが悪いねん。  クズを一個、世の中から消したったんやで。  社会貢献ってやつや。  殺したついでに盗みもやった。  事務所の金庫が開きっぱなしでな。結構あったで。  働くなんぞアホのすることや。額の汗なんぞ、一文(いちもん)にもならへん。  ほんで始めたんが、相場や。  ちょろまかしたゼニで、勝負したんや。  己の勘と運で生き死にが決まる。こんな男らしい世界が他にあるか?  負けがこんで苦しいときは、天井から下げた縄に頭つっこんで、相場がひっくり返るんを待ったんや。  一度戦争で死んだ身や。怖いもんなんかあるかいな。  あ? テレビでこんなこと言って大丈夫かって。  知るか。何十年も前のことなんぞ屁でもないわ。  けっ。今さら事件になんかなるかいな。とっくに時効や。   なんや、この本が気になるんか。  わしの将来を決めた本やからな。後光がさして見えるやろ。  ドス黒いところは血痕か、やと?  知らん。気になるんやったら警察に調べさせろや。好きにせえや。  ほれ、もっていけ。きいつけや。  おもいで。
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