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1、臥竜城の虎と川向こうの王子
「タイガーありがとー」
「湯船に浸かれるーうれしー」
タイガーと呼ばれた青年は、眼窩に溜まる汗を袖で拭いながら、ハイハイとおざなりに声を返した。
「だいじょうぶのはずだけど、また悪かったら言って」
踵を返そうとするタイガーの肩を、女たちの手が掴んだ。
「待て待て。お礼に聞いてやるよ、話をよォ」
「そうそう。どうせ暇なんだろ」
「なに、なんだよ」
臥竜城と呼ばれるスラムの一角、さらにその片隅にある、肉体と欲望を売り買いする界隈で、女たちの声は夜よりも低い。
痩躯を覆う長袖に隠れているが、安物を着古した布が、ひらひらとまとわりついて見え隠れさせる青年の筋肉は、肉体労働だけでは説明しきれない鋭さだった。
たやすく抗えるはずの女の細腕に引き込まれ、彼女らの店の裏手へと、笑いながらついていく。
元が何だったのか判らない、今は彼女達の休憩場所になっている木箱へと、促されるまま腰を下ろし。膝先からダラリと手を垂れて、まるで逃がさぬとでも言うように自分を取り囲む彼女らを見上げ、面白そうにタイガーは笑う。
「あんた、あの王子様はどうしたのよ」
「王子様?」
「川向こうから来てたやつ。五日と空けずに来てたのに、ここんとこ見ないじゃん」
あアー、と、タイガーは相槌を打った。
「シメイか。夏休みが終わったんだって」
「夏休み……」
「なっつッ!!」
「夏休みだけに?」
「うるせーな、たまたまだよ」
賑やかに、途切れることを知らない女たちの声をよそに、確かに王子っぽいなと、タイガーは笑う。
ちょっとした事件をきっかけに知り合いになった、川向こう、つまりスラムではなく堅気の街の男、シメイと肉体関係を持ってから、まだ一ヶ月くらいのはずだ。
自分のことを太らせたいという謎の理由で、シメイはたびたび似合わぬこの場所を訪れ、大抵の場合、自分のことを抱いた。
初めて彼に抱かれた時、自分の人生はまるごと裏返ったと、タイガーは思う。
「おいコラ」
「なーにひとりでうっとりしてンだよ」
「してねーよ」
女たちはいつも、会話から、空気から外れた者に気づくのが早い。
からかう声ですら優しくて、タイガーは女たちが好きだった。
「で?」
一人の一声で女たちのおしゃべりが止む。
全員が、目で同じように「で?」と問うているのに気づいて、タイガーは瞬いた。
「ン?」
「ン? じゃねーよ。王子とはどうなってんの」
「どう……っても」
笑うタイガーのまなじりに、くしゃりと皺が寄る。
「メシ食うとかヤルとか。たまに勉強?」
「勉強!?」
「勉強って」
「なんで勉強してんだよ」
女たちの合唱に、なんなんだよ、と、笑いじわが深くなる。
「さア。俺が馬鹿で王子がセンセーだから?」
「あんたべつにバカじゃないじゃん」
「学校行ったことないんだっけ」
「あっそうなんだ」
「臥竜城にも学校あった方がいいよね」
「先生がいねーな」
「資格あったらここいないよね」
いくらでも枝分かれし、永遠に続く女たちのおしゃべりに、耳を傾けるだけで加わらずに、タイガーは、時々浮かぶ疑問を今もまた思い浮かべた。
シメイは、本当は、ここに何をしに来てるんだろうか。
真っ当な仕事も金もあって、背が高くて、物知りで優しいし、行動力もある。アレも上手い。
男としては、いくらでもヤレる相手は何人いてもいいだろうが、女だっていくらだって手に入るだろうに。
それとも、女に不自由しないから、逆に男が面白いのだろうか。
「いや話そらすんじゃねーよ、タイガー」
ンふッ、と、タイガーは思わず噴き出した。
「俺かよ?」
勝手に好きなことをしゃべっている女たちの言い分に、肩を揺らして笑う。
「王子だよ、王子」
もちろんスラムでは見ない種類の男に、彼女達の興味は尽きないらしい。
肩にしなだれかかる女に、笑う横目を向けた。
「上手くいってんの?」
「上手く?」
「連れ出してもらいなよ」
タイガーの肩に腕を畳む女の声には、少しだけ悲哀があって、その場にいる全員が、短い間黙ってしまう。
ああ、と、タイガーは思う。
恋人とか、そういう話を聞きたいのか。
何度も身体を交えて、自分の身体どころか、今や、人生そのものが彼のセックスに絡まってしまっている感じがする。
だけど。
笑ってしまう。
それを想像することは、切なさよりも眩しさが勝るほどでも。
「俺の方はそりゃ、なくはねーよ。全然なくはねーけどさ」
女たちが話を引き取らないから、言葉を続けることになって、タイガーは少し、緊張を感じた。
「それはアレじゃん。家の前に札束落ちてねーかなーみてえなやつじゃん」
ああーと、満場一致のため息で、タイガーも大きく息をついて力を抜いた。
「つれえー」
「まあそれはそう。それはそうだよね」
「川向こうの男だもんなー」
「それよりさ」
肩に乗せられた腕を撫でるタイガーに、ン? と、腕の持ち主が眉を上げた。
「すげー肌、気持ちいいな。俺も女だったらよかった」
「え、手入れしなよ」
「手入れ?」
「あっそういう意味? 王子のためにってこと?」
「そうそう」
「くゎッ! かわいい! でもわかる!」
「家の前に札束落ちてねーかなって思ってるより、こいつとヤルのいいなって思われる方がいいじゃん」
「わかるゥ、でもつれえー」
「タイガー若いんだし、磨けばいいよ、肌くらい」
「……磨くのか」
「はいハズレー。ヤスリじゃありませーん」
言う前に考えを言い当てられ、タイガーは再び噴き出した。
「いや……肌用のヤスリがあんのかって……」
「やめろよ血みどろだよ」
「こわッ」
「あんたしょっちゅう風呂行ってるでしょ。乾燥してるよ」
途端に伸びてくる手が、袖を捲ったり、顔や首筋を撫でるのに、目を落とす。
「そうか? 汗すげーけどな」
「余計だめ」
「てかタイガーほんとよく風呂行ってるよね。それも王子のため?」
「あー、それは、なくはねーンだけど」
「この子、元々ケッペキなんだよ」
「うわ、ここで潔癖とか生きづらッ」
「ケッペキってほどじゃねーけど」
「充分でしょ。毎日風呂入るやつだって少ないのに」
「それはほんとね……せめて店来る前は入ってこいっつー……」
途端に始まる際疾い話に、また、笑って耳を傾け。
「なにで身体洗ってる?」
「え、普通にタオル」
「手で洗って。今日から」
「ええ……。汚れ落ちっかな……」
「一日一回以上入ってんだから落ちる。てかむしろ落としすぎ」
「汚れ落としすぎるとかある?」
「ある」
「汚れってより、皮脂だねー。洗い過ぎて必要なモンまで流してるよ、それ」
「そんなに洗うなら、なんか塗った方がいいね」
「……たとえば?」
「クリームかオイル。薬屋に相談してみなよ」
「薬屋にあんのか」
「こっから一番近いとこが詳しいよ」
「あア、ハナムラのとこか」
「そうそ」
「ねえね、タイガー。それよかあんたさ、テクでも覚えなよ」
癖毛を掻き回す女の指に、テク? と、タイガーは目を上げた。
「フェラとか」
「あアー。覚えてえ」
「いいよー、教えたげるゥ」
「こいつのチンコ見てえだけだろ、それ」
女たちが一斉に笑い、つられるようにタイガーも表情を崩す。
「え、だって見たくね? タイガーって一回も来たことねーじゃん」
ベルトを外して前を緩めながら、いや、とタイガーは眉を上げた。
「あるよ、一回」
「えっマジ?」
「はぁい、ア・タ・シがいただきましたぁ」
「うそォ、知らなかったー」
「あんた休みだったもんね」
「どうだった?」
「フツー」
「ッ、やめろよ、勃たなくなンだろ!」
アーンごめーん、としなを作る声に、また女たちが笑う。
「ヤバ、ほんとに臭くない。ケッペキ男いいじゃん」
「そこだけはほんとね」
「だけとか言うなって!」
笑いながら抗議するタイガーの開いた足の間に、名乗り出た女が膝を着いた。
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