第二章 幻茶と賽子苺ぜんざい

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 伏拝さんの肩の上には三本足の八咫烏が乗っていた。八咫烏は運搬や伝聞を担っている。八咫烏の来訪は、客が来るという意味のようだ。私は緊張しながら頷いた。 「僕が全部対応するから、由真は僕が呼んだら甘味を出してくれたらええよ」  伏拝さんの淡々とした声と短い指示に、自分の役割が明確化して胸の内が落ち着いた。茶屋側から、がらりと木の戸が開いた音がした。伏拝さんが暖簾をくぐり、お客様を迎えに出る。私もあのとき、こうやって迎えられたのかと心臓がどくどくと音を立てた。暖簾の向こうから伏拝さんの声が聞こえる。 「ようこそ、神様茶屋へ」  私は息をひそめつつ、暖簾の前に木の腰かけを置いてそこへ座った。暖簾の隙間から、お客様の姿が見える。  彼女は私より年下の十代の女性のようだ。だが鎖骨が異常に浮き出るほどに、痩せていた。腕も足も枯れ木のような彼女はとても健康には思えなかった。伏拝さんに導かれた彼女は芳名帳に記入したあと、囲炉裏の前に座る。彼女は細枝のような手に赤いスマホをきつく握りしめていた。 「お茶を一服、差し上げます」  伏拝さんは私にしてくれたのと同じように頭を下げて挨拶をしてから、白磁器の湯呑に白湯を注いだ。立ち上がった伏拝さんは百味箪笥の前に移動し、ふと逡巡するように引き出しを上から下まで見つめ、一番下の引き出しから茶を取り出した。伏拝さんのその行動は、お客様と出会ってから今日のお茶を決めていることを示していた。 「岡本さん、楽に座ってください」  伏拝さんは芳名帳で知ったのだろうお客様の名を呼ぶ。私の時は「由真」と呼ばれたが伏拝さんは彼女を名字で呼んだ。敬語も、私の時はなかったような。  伏拝さんはゆっくりとした動作でゆるりと茶を淹れ始めた。湯呑に注がれた茶は濃い茶色をしており、独特の酸い香りが茶屋に広がった。伏拝さんが茶棚から取り出した小瓶には粉が入っていた。おそらく、砂糖だ。伏拝さんは茶の中で匙を回して砂糖を溶かした。 「石鎚黒茶(いしづちくろちゃ)です」  岡本さんの前に置いた茶には桜の花びらが一枚浮いている。私は一度立ち上がり、リュックからまた違う日記を一冊取り出した。ぎっしり書き込んだページをめくっていく。茶屋に勤めたいと思ってから、茶に詳しくなろうとして勉強していたのだ。私は何でも日記に書き込む。ネットで調べるだけでは頭に入って来ないからだ。お姉ちゃんには日記オタクだねと言われていた。  甘味勉強日記、お茶勉強日記、日常日記。私の部屋には日記があふれかえっている。私はまだたった三冊目のお茶勉強日記から、石鎚黒茶についての記載を探し当てる。  石鎚黒茶は世界にたった二例だけの二段発酵茶だ。通常の茶葉は蒸すが、石鎚黒茶は菌や微生物を用いて発酵、さらに揉む過程を入れる独特の製法をとることで他のお茶の一線を画す。幻の茶という異名が付くほどだ。 「い、いただきます」  岡本さんから固くて小さい声が漏れた。握り締められていた赤いスマホが脇に置かれて茶が口に運ばれる。 「酸味があるけど……なんかフルーツティー?みたいな?紅茶みたい」  岡本さんの感想を聞いてぴんときた。柑橘系の酸っぱさがある石鎚黒茶をまろやかにするために、伏拝さんは砂糖を入れたのだ。岡本さんが飲みやすいように配慮したのだろう。岡本さんは桜の花びらと共に石鎚黒茶を飲み干した。私も伏拝さんが淹れてくれたお茶が止まらなくて飲み干した覚えがある。  そしてそのあと──たまらなく泣きたくなった。 「あたし……その、あたし……!」  岡本さんの細い肩が震えて、落ちくぼんだ瞳からぼろりと雫が落ちた。 「お話しください」  伏拝さんの淹れる茶に涙を誘われて、胸の中の塊を吐き出し始める。お客様の悩みを茶屋の主人が聞き尽くす。それが茶屋の役割。伏拝さんの丁寧な口調に導かれて、岡本さんがぼろりぼろりと胸の内を語りだした。 「あたし、高二の時にフラれて……元カレはその後すぐ、私の友だちと付き合い始めちゃって。私より細くて綺麗で可愛い彼女みたいになったら元カレは帰ってきてくれるんじゃないかってダイエットし始めてね。食べてもわざと吐いてってしてたらその時はすっきりして気持ち良かった。体重が減るのも嬉しくて……な、なのに綺麗になったでしょって元カレに自撮り送ったら……き、キモいって」  岡本さんは涙で擦れた声で途切れ途切れにもずっと、話し続けた。 「瘦せすぎてキモいって意味だってわかんなくて、もっと痩せなきゃって私一日中便器の前で吐き続けて」  岡本さんが吐く行為から抜け出せなくなってしまった生々しい話は痛くて。私は耳を塞いでしまいたくなった。でも伏拝さんは背筋を伸ばして岡本さんの前に静かに座っている。岡本さんが折れそうな指で湯呑を持ちながら、脇に置いた赤いスマホをやつれた顔で見やる。 「治療は始めたんだけど、もう何にもできなくなっちゃって……春に高校も卒業できなかった。友だちはみんな大学生になって一人暮らし始めたとかサークルに入ったとか合コンしたとかSNSにいっぱい上がっててね。私だけ、みんなに置いて行かれて……私だって皆みたいに早く大学生になりたいし、早く普通になりたい」  湯呑を置いた岡本さんの右手が、左手首に指を食いこませるほど強く握る。その左手首に横ばいに走った傷があることを予感してしまう仕草だった。 「老人ばっかりの病院の待合室でスマホ見てさ、私だけ時間止まっててさ……私、何やってんだろうって、もうずっと私このままなんじゃないかって。昔から何やっても遅くて鈍臭くて馬鹿にされて病気なんてなってもう消えちゃいたくて……!」  岡本さんのこけた頬の歪な曲線に沿って涙が滑り落ちた。スマホ画面の向こう側があまりに煌びやかで。気持ちばかりが焦って、ままならない身体に苛立つ岡本さんの痛みに同調していってしまう。 「私だって早く何かになりたいよ!早く、早く早く!!」  岡本さんの膨れ上がった気持ちが張り裂けたような声だった。右手で握った左手首に額を押しつけて、ああ、ああと言葉にならない呻く音だけで岡本さんは泣き続けた。囲炉裏の炭が小さく弾ける音と、彼女の泣き声だけが茶屋に満ちた。  私は調理場で息を飲み込んで両手で顔を覆った。苦しい。彼女の痛みが陰で聞いているだけの私にまで投げつけられているようだ。息苦しくて、私の目元を押し上げる哀しみの波を堪えきれなかった。伏拝さんはずっと彼女が発する負の気持ちを真正面から全て受け取っている。伏拝さんが神様茶屋はしんどいところだと言った言葉を思い出して、大いに共感した。  長かった。彼女の涙が枯れるまでの本当に長い時間、伏拝さんは背筋を伸ばしたまま動かなかった。鼻をすすった私も彼女の痛みを少しだけ預かったような感覚だった。岡本さんがふと顔を上げる。目尻に溜まった涙を腕で拭った岡本さんはふと呟いた。 「なんかちょっと、すっきりした気がする……おかしいね。さっきと何にも変わってないのに……」  岡本さんが今感じているだろう感覚が、私にもわかる。私も神様茶屋で同じ経験をしたからだ。  私たちは何かに悩んだとき、それが「どうしようもない」ことだと、まず受け入れる必要があるのかもしれない。  お姉ちゃんは生き返らない。  岡本さんの病気はすぐには治らない。  そんな変えようがない惨い現実を前に、私たちはばたばたと足掻いて悩んで嘆いて泣きわめいて吐き出して。そういう一見無駄な遠回りをしてやっと、どうしようもないのだなと腹に落ちる。悲しみ切ったそこが、始まりなのだ。 「ひさびさにお腹空いたかも」  彼女が握り続けた左手首が解放される。左手首は右手の指の形に鬱血していた。伏拝さんがふと立ち上がり暖簾の前にやって来る。 「由真、用意してくれるか?」  伏拝さんの静かな声に促されて、私は頷き、顔を拭いて作業台に向かって立ち上がった。私の仕事は、ここからだ。
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