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第一章 再会茶と蜜柑ぎゅうひ餅
息を吐くと真っ白のもやが口の周りを揺蕩う如月。
私は一人で熊野古道を歩いていた。
「困ったときは、熊野へ行きな」ともう成人した私に向かってお姉ちゃんは何度でも言った。熊野はお姉ちゃんの聖地だった。空を覆うほど背の高い樹木に囲まれた古道。熊野本宮大社を目指すための厳かな道を底の厚い山靴でぎしぎしと踏みしめる。短い栗色の髪を耳にかけ直し、白い息を吐きながら鬱蒼とした森の中にある石の鳥居をくぐった。赤く小さな社(やしろ)の前、せり出した向拝の下で、手袋をとってから静かに両手を合わせる。
「……お姉ちゃんが、亡くなりました」
口からその言葉を発した瞬間、ぐっと喉が詰まった。目に膜が張って堪える間もなく雫が頬に落ちた。冷たい風が頬を刺して雫が凍りそうだ。熊野古道には九十九の「王子」(おうじ)がある。王子は熊野本宮大社へと至る古道の道々に在地の神を祀るための場所のことだ。
私は五年ぶりに参る発心門(ほっしんもん)王子へ向かって泣きごとを言った。誰にも聞かれないようにこんな凍える朝早くに参ったのだ。
「私が良い子でいなかったから。だから……」
あふれ出る感情を覆うように両手で顔を覆った私の上で、木の葉の中を何かが通り抜ける音ががさがさっと鳴った。ふと顔を上げるとかぁと鳴き声。烏羽色の鴉が飛び去って行った。清い沈黙が鎮座する森の中では木の葉の音さえ大きく響く。鴉のおかげでひっこんだ雫を拭いて、私は発心門王子に礼をしてから背を向けた。私は再び手袋をつけて、静かで巨大な森の古道を歩きだす。
長く険しい参拝道の間に点々と存在する王子は熊野大社を目指して歩く者たちの道標だ。スタンプラリーのように一つ一つ経由していく。発心門王子の次は石像の水呑(みずのみ)王子を参り、次は伏拝(ふしおがみ)王子。
伏拝王子へ向かう古道は民家の合間を縫っている。古道と言っても今はコンクリートの道が大半だ。だがそんなコンクリートの道であっても、人が暮らす空間と神域である参道の空気が行ったり来たりする現実感が曖昧になるような道なのだ。
熊野古道は一歩踏み出し、一歩踏みしめ。
目に見えないものを視る力を高めていく仕掛けが施されているように思う。熊野古道を歩き続けることで高まるものが確かにある。喉が痛くなるほど冷え込んだ空気を肺に入れ吐き出して、ただ歩いて。灰色の空の下で私は泣いた。
歩き続ければ、もういないお姉ちゃんに会えるんじゃないかと、微かに希望が湧くような。
ここはそんな、道だから。
伏拝王子の前は特に坂がきつい。もう歩くのを止めてしまいたくなるような重さが身体を襲う。だけど私は知っているのだ。もうすぐ目の前が開けると。私はその瞬間のために苦しい足をもう一歩進む。
民家の合間道が終わり、木と土の古びた階段を上り、また木と木の間の道を上る。上って、上る。すると突然ぱっと木の遮りが開け、見晴らしが良い場所にたどり着く。今まで辛い参拝道を歩んできた人にご褒美を与えるような絶景が眼下に広がった。
「大斎原(おおゆのはら)だ……」
雄大な山々が迫り、その間に開ける平地を見下ろすと日本一の大鳥居、唐紅の大斎原が堂々とそびえ立つ。大斎原は熊野本宮大社の入口だ。今までどうあっても見えなかった終着点が垣間見え、あと少し、もう少しがんばれと背中を押してくれる。そうやってもう少しの勇気をくれる場所が、伏拝王子だ。
昔の人はこの悠然とした景色の前に伏して拝んだという。私も上がった息を整えて、壮麗な大斎原に手を合わせた。ふいに手を合わせてしまいたくなる神秘さにまた、目の奥がぎゅっと縮んだ。
そっと目を瞑って頬を刺す寒風を感じ、ゆっくり目を開ける。
私はいつの間にか茅葺屋根の小さな家の前に立っていた。
私はきょろきょろと首を左右に向けた。左右には今まで歩いてきたような森の中の土と砂利と石の細い古道が続いていて、最果てが霧がかってぼんやりと見えなかった。私はその道を歩いて行こうとはせず、樹齢何百年かと思われる巨木を背に立つ茅葺屋根の古い家に引き寄せられた。
あの巨木は桜かもしれない。しかし今は冬だ。葉などついていないはずなのに、その桜木は新緑の葉を豊かにつけていた。だが、そんな疑問は白い息が空気に溶けるように消えた。
私はなぜかこの古い家は茶屋だと、知っていた。茶屋の前には緋毛氈が敷かれた縁台が置かれていてここに座ってお茶とお団子を食べるのだと自然とイメージできた。この縁台に座ったことがあるような記憶を垣間見たが、それより私は木の引き戸に手をかけることに夢中だ。入らなければならないと駆り立てられた。
がらりと簡単に木の引き戸が開く。土の三和土に一歩踏み入れると、茶の芳ばしい香りが鼻に満ちた。後ろ手に引き戸を閉めて茶屋の中を見渡す。黒くてまっすぐではない太い梁が十字に走った高い吹き抜けの天井。三和土の正面段差の向こうには十畳ほどの畳部屋だ。
畳部屋の右奥で囲炉裏がぱちぱちと火の温かい音を立てて、その上に吊られた鉄瓶から細い湯気が立ち上っていた。茶と炭が焼ける匂いと共に、三和土の奥から暖簾をくぐって男性が現れた。
「ようこそ、神様茶屋へ」
男性が私に向かって丁寧に頭を下げた。穏やかな声に耳が和む。
「神様、茶屋?」
若竹色の作務衣を着た男性の容貌は特徴的だ。鼻先でぱつんと切りそろえられた前髪に隠れて目が全く見えない。だが怪しいとか怖いだとか。まるで思わなくて、彼が右手で私を畳の上へ促すのについて行ってしまう。
重い山靴を脱ぎ三和土から畳へ上がる。すぐ前には天板が歪んだ羊羹色の木机があり、その前に座るよう導かれた。作務衣の男性は細身でやや猫背。二十代くらいに見えた。彼は木机の向こう側に座り、芳名帳を広げた。
「由真、ここに名前を書き」
手袋を外して何の迷いもなく名前と住所を書き記すと、次は囲炉裏の一辺に置かれた赤茶色の座布団の上に案内された。上着を脱いでふわりと柔らかな座布団に座り、囲炉裏の炭がぱちんと優しい音を立てるのに耳を澄ます。向かいに作務衣の彼が座り、私に向き合った。正座した彼は丁寧に指を畳について頭を下げた。
「お茶を一服、差し上げます」
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