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その言葉を聞いて私は茶道が始まるのかと思った。お茶を一服差し上げますの決まり文句は茶道の挨拶だ。しかし挨拶は知っていても、私は茶道の作法までは知らなかった。座布団の上に置いたお尻が急に収まり悪くなる。
作務衣の彼は向きを変え右横を向くと畳の端の茶棚から、急須と湯呑を取り出す。私は緊張で息が詰まった。
「お茶は好きに飲んだらええ。足も崩してええよ」
私の心配を見透かしたような彼の言葉に肩の力が抜けた。お言葉に甘えて足も崩して力を抜いた。彼は立ち上がり三和土を下りる。広い三和土の端には升目上に並ぶ小さな引き出しが数えきれないほどついた百味箪笥が二つもあった。彼は百味箪笥の小さな引き出しを一つ空けて小さな缶を取り出した。薄緑色の缶を持った彼が囲炉裏の向こう側に正座して座り直す。
彼は猫背だった背を伸ばして肩を落とし姿勢よく缶の蓋を開けた。きゅぽんと蓋が解放されると、香ばしい焙じ茶の独特な香りが舞った。少し焦げたような苦みのある香り。
「焙じ茶、ですか?」
香りで焙じ茶であることは間違いない。思わず口にすると、彼は茶葉を急須の網に入れながらぽつりと呟くように話した。
「音無茶(おとなしちゃ)や」
「音無茶って、伏拝近くの地元茶ですよね……焙じ茶は売って……なかったような」
熊野にはお姉ちゃんと何度も来ていてお土産に地元の焙じ茶が欲しかったのだが、お土産屋さんに焙じ茶の販売はなかった。諦めて、煎茶の音無茶を買って帰った覚えがある。音無茶に焙じ茶はなかった。
「僕が炒ったんや」
彼は端的に答えてから私の方に向きを変え、鉄瓶から白湯を湯呑に湯を注いだ。まず湯呑自体を温めて、茶を注いだときに温度が下がるのを防ぐためだ。知識としては知っていてもそんな手間なことは一度もやったことがない。彼は自ら煎茶を炒って自家製焙じ茶を作り上げ、湯呑を温める手間を惜しまない。
一服の茶に臨む真心が見える。
彼はそれ以上口を噤み、再び鉄瓶から茶葉を入れた急須に湯を注ぐ。こぽぽぽと心地よい水音。急須の蓋が閉じられ静寂が訪れる。茶葉が開くまで待つのだ。彼は一言も口を聞かず、私は静けさの中に融合するような一時を浴びた。
ぱちんと炭が弾けると同時に彼が湯呑の湯を囲炉裏の端に置いた器に流す。急須から湯呑に薄茶色の焙じ茶がなみなみ注がれ、茶葉だったときよりも幾分か柔らかになった香りが届いた。
彼は湯呑の上で、平手を円の形にくるりと回した。その時初めて、彼の手の甲に黒桜の刺青があることに気がついた。五枚の花弁が咲き誇る桜。手の甲の桜が湯呑の上で一周する。すると、薄茶色の焙じ茶の水面に薄紅色の桜の花弁が一片、浮いていた。
「桜の花びら……?」
彼は桜の花びらが一枚浮いた焙じ茶の入った湯呑を茶托に乗せて、私の前に音もたてずに置いた。
「どうぞ」
桜が浮いた音無焙じ茶、とでも言うのだろうか。私は真っ白な白磁(はくじ)の湯呑をゆっくり手に取った。薄茶色と淡い桜色が相まって芳しい香りを放つ焙じ茶にふうふうと細く息を吹きかける。湯気が鼻の奥に高い香りを届けた。
ずずずと焙じ茶を口に運ぶと、なめらかに花弁も口に入り込んだ。花弁の異物感はまるでなく、口の中で液体と化したのか焙じ茶と自然に混じり合った。喉の奥に焙じ茶特有の爽やかな香ばしさと懐かしさが満ちた。
桜入りの茶は胃を温め身体がほかほかする。湯呑を握る掌が今更冷えていたと気づいた。じんじんする指先で白磁器の湯呑が空になるまで飲み切った。
口の中、胃の中、血の中。
全身から温かさがこみ上げて火照った身体は最終的に、目から雫を零す。ぼろりと噴き出た水滴が後から後から止まらなかった。
「桜は涙を誘うんや」
彼の優しい声が茶屋に落ちた。
「好きに話し……全部聞くから」
許された私の口は胃に留めてきた想いを吐き出し始めた。ここでは躊躇なく話すことが、自然だとわかる。この茶屋はきっとそういう場所なのだ。
「私が良い子じゃなかったら、悪いことばかり起きるんです」
私は空っぽになった白磁器の湯呑を握り締めた。
「五年生のとき、大きな荷物を持った母に留守番を頼まれました。留守番中に近所の友達に遊ぼうって誘われてつい遊びに行ったんです。そうしたら母はもう二度と帰ってこなかった……私が良い子じゃなかったから」
静かな茶屋には私の懺悔と炭のぱちんという音だけ。囲炉裏の向こう側の彼は是も否もなく木のように佇んで座っている。でもまっすぐな姿勢が私の声をきちんと聴いていると伝えていた。
「お姉ちゃんは母の再婚相手の、連れ子でした。その再婚もすぐに終わって離婚して。だから私とお姉ちゃんはもう戸籍上、全くの他人だったんです……なのにお姉ちゃんは一人になった私を迎えに来てくれて。私を養子にして親代わりになってくれました」
握り締めた湯呑にぽとりぽとりと私の目から落ちた雫が雨のように溜まっていく。
「私は今度こそ良い子でいようって決めて、勉強して公務員になって。なのに、私……」
市役所の生活保護課に配属された新卒の私は、百二十の高齢者世帯の担当を受け持った。生きるためのお金を法律にのっとって支給する大切な仕事だ。
慣れない業務を懸命にこなしていたが、いくら理論的に話をしても「話が通じない人」が何人もいた。もちろん百二十世帯の中でごく少数、一割以下の人だ。
彼らは窓口にやってきてはなぜ俺の言い分が通らないんだ!と怒鳴り散らし、私が自宅を訪問すれば自分の要望を通すまで返さないと玄関を閉められ監禁されかけたこともある。訴えてやると電話口で罵られると私は背筋が凍って息ができなくなった。
上司は「ああいう話が通じないタイプの人は世の中にたくさんいるから、いずれ慣れるよ。ビクビクしちゃって、由真ちゃんは繊細過ぎるね」と笑い飛ばした。
そう。弱い私が、悪いのだ。
一年経っても、私はどうしても話が通じない彼らに慣れなかった。目をつり上げて形相を変え異常な怒り方をする人たち。感情だけで私に「死ね」と強烈に罵る人間と向き合うのが怖くて、出勤できない日が増えた。
休みが続き、いい加減にしてくれと上司に言われて、身体を引きずって出勤した日。事務所に鳴り響く電話を取ろうとして息ができなくなり……倒れて。そのまま辞職してしまった。
「お姉ちゃんは私を引き取ったせいで、長く結婚を延期してくれていて。私が独り立ちしてやっとずっと付き合っていた彼氏の健ちゃんと結婚しました」
トラック運転手として働いていたお姉ちゃんは同じ職場の健ちゃんと仲睦まじかった。あっけらかんとあらゆる困難を笑い飛ばす明るい二人が私は大好きだった。
結婚しようという健ちゃんにストップをかけていたのはお姉ちゃんだ。私が独り立ちするまでケジメだと言い、健ちゃんも待ってくれていた。
「新婚のお姉ちゃんに、幸せでいて欲しかったから仕事を辞めたことは言わなかった。でも仕事は順調だと嘘をついて隠したのは……良い子じゃなかった」
目から落ちる雫は速度を増すばかりで、目蓋の裏は焼けつくようで鼻が詰まって話すのも苦しかった。でも止まらなかった。私の懺悔を吐き出したかった。
「嘘をつき続けていたら、お姉ちゃんと健ちゃんの二人乗りバイクに……トラックが突っ込んだって連絡が……」
湯呑みに溜まる雫のかさがさらに増す。涙の水面にぼとりぼとり大粒の水滴が落ちて絶え間なく波紋を広げた。
「お姉ちゃんが死んだのは私のせいなの!」
私は腹に抱え込んでいた塊を吐き出した。
「私が仕事も続けられないくらい弱くて!嘘ついて逃げたからぁ!」
あぁと私の情けない涙声が茶屋にこだました。その後もわぁわぁと子どもよりも大声で泣き喚いた。私がどんなに取り乱しても彼は動かず、慰める言葉も言わず、頭を撫でるようなこともない。
そうしてじっとそこで私が発するものを受け続ける彼は、私の抱える重いものを受け取って、預かってくれているかのように思った。
私たち人間は神様が何もしてくれないことを知っている。
だけど、つい何かに向かって手を合わせて祈ってしまうのは、今みたいに痛みを預けるためなのかもしれない。
頭が痛くなるほど泣いて、ついに今日の分の涙は枯れた。枯れた私に水をやるように、彼はまた一杯の茶を淹れてくれた。やはりまた桜の花弁が一片だけ浮いていた。
「桜は人に添うもんや」
彼の凛とした呟きと共に、茶をすする。土が水を吸い込むようにその茶は私に染みた。ただ散々に泣いただけだ。何も変わってない。私の罪は消えない。お姉ちゃんも帰ってこない。
けれど、一度枯れ切って、茶を吸い込んでやわくなった心の奥から、少し顔を上げてみようかという気持ちが芽を出した。
「お茶、美味しかったです」
茶を飲み切った私はここに来た時よりも幾分か軽い気持ちで立ち上がった。三和土で靴を履いて後ろに立つ彼をふり返る。彼はまた少し猫背気味に戻っていた。前髪の奥の見えない目から視線を感じる。私は胸の温かさを抱えて頭を下げた。
「元気が出ました」
私は顔を上げ、泣き腫らした目を細める。お姉ちゃんが死んでから、初めて笑えた。私の笑みを受け取った彼は猫背を丸めて礼をした。
「僕は遠くからずっと由真の幸せを想って、拝んでるから」
伏拝には「遠くから拝む」という意味もあったなと思いついた。
「もしかして貴方は……伏拝王子ですか?」
私の問いかけは空に消え、二つ瞬きする間に私はまた遠く大斎原を見渡す絶景の前に立っていた。私の周りには伏拝王子を参りに来た他の参拝客が数人いて、スマホで記念撮影に勤しんでいる。私は左右を見渡したが神様茶屋は跡形もなく消えていた。
「夢……ではないよね」
ずんと重い目蓋の痛みと、寒風の中で特別に火照る身体があの茶屋にいた証だ。
私は日記に、不思議な体験を受けた高揚を万年筆で詳細に綴った。
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