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第二章 幻茶と賽子苺ぜんざい
桜が満開を迎えた春爛漫の日。
神様茶屋に初出勤することとなった私はリュックを背負って大斎原行きのバスに揺られている。バスの窓辺に肘を置いて、流れる民家をぼんやり眺める。初仕事の今日までをぼんやり思い返した。
発心門様と契約させてもらったあの日からすぐにでも働きたかったのだが、伏拝さんが止めたのだ。
「茶屋で甘味を作るんやったら、調理場がいるやろ。整えるから待っとき」
「こいつ片づけが壊滅的だから、調理場は今、悲惨なことになっていてだな」
伏拝さんは発心門様のよく喋る小さな子どもの口を両手で覆って塞ごうとしたが、遅かった。丁寧にお茶を淹れる方なのに、お片づけは苦手らしい。私の仕事があるようで良かった。
「由真が来るんやから、決まりも変えなあかん」
「お前、意外と過保っ……」
また発心門様の小さなお口がもがもが動いていたが、今度は伏拝さんの手が勝った。
「用意ができたら八咫烏(やたがらす)に手紙を持たせるわ」
八咫烏は熊野において神の使いとされる三本足の鴉のことだ。八百万神の世界では本当に神様たちのお使い役として働いているらしい。
私が家の台所に立っているときに、台所に面した小窓の外から鴉が覗いていたのは驚いた。三本の足の一つに手紙をつけた真っ黒の八咫鴉に挨拶してみたが、八咫烏は王子の神様たちのようにお喋りはしないようだった。八咫烏も八百万の神の一員のはずだが。
「八咫烏さん。話せる八百万の神と、話せない八百万の神の違いは何?」
ちょうど台所で切っていた苺を八咫烏の嘴前に差し出すと、八咫烏はしっかり食べてから無言で帰って行った。八咫烏が届けてくれた手紙は桜色の紙で、ほのかに桜の香りまでした。桜の紙に浮かび上がったように滲んだ字。
「どうやって書いたんだろう……」
目がないはずの伏拝さんからの手紙。優しく香る桜の紙を透かしてみる。神様の不思議な力を使って書いたのかもしれない。桜色の手紙には出勤日と、初めてのお仕事の依頼が書かれていた。
『水呑王子に氷をもらってから茶屋に来てほしい』とのことだった。
手紙によるとなんと水吞王子様ご本人は、熊野古道にある王子の石像にはいないことが多いらしい。神様は祀られている場所に常駐ではないようだ。
バスが止まり、私は大斎原の最寄バス停で降りた。
「水吞王子はどんな方かな」
また新しい神様に会いに行くと思うと緊張とわくわくが混じり合った。バスを降りて以前は熊野本宮大社があった旧社殿跡を抜け、すぐ横を流れる熊野川へと続く細道を歩く。
巨大な大鳥居、大斎原を横目に木の間を通り河原へ出ると、底は浅いが川幅が広い熊野川に出会う。川の流れはゆるやかで水の透明度は抜群だ。
大斎原の河原はまるで人気がなかった。川辺には川石をいくつも積み上げた墓のようなものが乱立している。一見、賽の河原を思わせる光景。だが、山々を背景とした川の清浄さが圧倒的に勝っており、おどろおどろしい感じはまるでない爽やかな場所だ。
広大な川の気が満ちる神聖な河原に、大斎原を思わせる唐紅の衣を纏う女性がいた。誰もいない河原に一人佇み、川に足を浸して優雅に煙管をくゆらせる彼女は妖しい美しさを放っている。私は積まれた石の間を縫って彼女の隣に立つ。
「初めまして、水吞王子。神様茶屋からお使いに来た由真と申します」
深々と頭を下げるとハスキーだが明るい声に迎えられた。
「あなたが由真ちゃんね、伏拝から聞いてるわ~私は水吞王子よ。よろしくね~」
煙管からぷわーと青空に白煙を噴き出す水吞王子は私を興味津々の眼差しで見つめてからクスクス妖艶に笑う。切れ長な瞳は艶やかで、白い頬に垂れたウェーブがかった黒髪を耳にかけ直す仕草が色っぽい。色気を纏った彼女は人間でいう三十代くらいに見える。
「水は毎日取りに来いって言ってるのに、伏拝は絶対来ないのよ。新米のくせに生意気よね~」
「新米ですか?伏拝さんが?」
「そうよ、伏拝が発心門様に選ばれて『王子の役』をもらってからまだ十年ちょっとくらいじゃないかしら?」
王子の役という言葉は初めて聞いた。熊野古道にある王子は八百万の神の中から任命されて就任するような「役職」であるらしい。熊野古道を守るような役割だろうか。
「氷にして一ヶ月分まとめて寄越せとか雑だと思わない?」
彼女の口ぶりから見えてくる伏拝さんは、彼女から氷をもらうことを億劫がっていたようだ。
「でも由真ちゃんがお水係になったのよね!いいわ~いっぱいお話しましょうね~!」
「お話、ですか?」
「こ い ば な!」
そこから水吞王子は私を隣に座らせ、リュックを下させ、眼前の川の穏やかな流れとはまるで違う、激流のようなトークを始めた。
「由真ちゃんは好きな人いるの?私はね、実は発心門様のこと狙ってるの!もう百年くらい前の話なんだけど、私が当時の恋人に泣かされたときに発心門様が見る目がないな、俺の方がどう見ても良い男だろって笑ったのがもう胸にときめいちゃって!その後に発心門様から水吞王子にならないかって誘われたときはもう結婚しようって言われたのと同じだと思ったわ~!」
発心門様大好きの話が長々と続き、いつまでも氷はもらえなかった。伏拝さんの足が遠のく理由はわかった。男性には延々と続く女の話を聞くのが難しい方もいるのだ。しかし私は彼女の話にこくこく頷いて一言一句もらすまいと懸命に聞いた。
公務員時代も担当した百二十世帯の方の家を訪問して色んな人生を教えてもらった。話を聞くのは苦ではない。恋を語っていきいきと楽しそうな水吞王子の足が組み替えられる。私はつい彼女の足に目を取られる。
彼女の着物から覗くのは人間の足ではなく、二本の木の根。
私は発心門様と契約したことで「格の高い八百万の神」が視える能力を得たと聞いている。実際に目にすれば彼女が人ではないことは容易にわかった。発心門様のお尻には狐の尻尾、水吞王子の足は木の根っこ。発心門様が言っていた「名残」(なごり)は完全に消せないとはこういうことかと思う。八百万の神たちは人の形をとっていても神としての本来の姿や特性を消せないのだ。
おそらくだが、伏拝さんの名残は手の甲にある黒桜の刺青ではないだろうか。あの黒桜の刺青はもの静かな伏拝さんにしては主張が強くてどこか歪に感じる。だから伏拝さんの本来の姿は……桜の木なのかもしれない。
「由真ちゃん、恋バナ相手してくれてありがとう!すっきりしちゃった~!」
水吞王子が話を切り上げたのは日が真上になる頃だった。水吞王子の恋心いっぱいの話は、公務員時代によく聞いた社会への不満を捏ねる恨み節に比べれば聞いていて心地良かった。
「今日はこのくらいにしておくわ。お迎えも来たみたいだしね」
「お迎え、ですか?」
誰にお迎えが来たのかと私が首をきょろきょろすると、水吞王子はぷぷっと口を覆って笑った。
「あんなにここに来るの嫌がってたくせに。伏拝って意外と過保護なのね~由真ちゃんにだけかしら?え~もうそうなの~?!知らなかった~!ときめいちゃった~!」
水吞王子が胸に手をあててクスクス笑い続ける。だが、理解が及ばない話題だったので首を傾けるしかなかった。水吞王子のときめきが落ち着くのを待って用件を切り出す。神様茶屋で茶を淹れるために使う水は、水吞王子からもらった氷からできていると手紙に記載されていた。しっかり私の役目を果たさなくては。
「氷を頂きたいのですがどこに?」
私は立ち上がって河原を端から端まで観察したが氷らしきものはどこにもない。
「ここよ~」
水吞王子が細くて白い手の平でくるんと空に円を描くと熊野川の水がコップ一杯分だけ浮かび上がった。浮いた水が彼女の顔の前できゅっと縮まり氷になり、小さな氷はころんと彼女の手の平に着地した。
「これが水吞王子特製、熊野川の天然氷。私の力で浄化してあるのよ。とっても美味しいんだから~」
「すごい……!」
水吞王子が感嘆する私に向かって、あーんと口元に氷を差し向ける。私は素直に口を開けた。氷が口の中に放り込まれる。きゅっとした冷たさが口を満たして、ころんころんと口の中で氷を転がすとするんと溶けてしまった。喉の奥がすっとした。
「……恥ずかしながら、水の味についてはわかりませんでした。でも、清められた気がします」
「水の味の違いなんてわかる人間の方が少ないわ。でもね、熊野を訪れて熊野の水を飲めば、元気が出るのよ。そういうのは人間の言葉では英気を養うって言うの」
「感覚的にわかります。土地のものを味わうと健康になるって言いますから」
水呑王子は木の根っこの形をしている足先で川の水をぴょんと蹴って遊んだ。水吞王子は熊野川の水と戯れて英気を養うのだろうか。
「食べ物にはね、その土地の八百万神の神気が宿ってるのよ。だから地元で採れたものはいっぱい食べなさいね~」
「はい、水吞王子の氷に私の身体は喜んでいました。ありがとうございます」
「そんなに素直に褒めてもらったの久々よ~」
礼を口にすると水吞王子は目を丸くしてぽっと頬に桜色を刺した。綺麗な顔をやや伏せた水吞王子は、こちらこそありがとうと小さな声で呟き、可愛くふんわりと笑った。私はその笑みに釘付けになってしまった。
「水吞王子はもとからすごくお綺麗なのに、そんな可愛い顔を見せたら、発心門様もめろめろなのでは?」
私が心の内を素直に吐露すると水吞王子はまた胸に手を当てた。ときめきポーズのような気がする。
「心底から気に入ったわ、由真ちゃん!またお喋りしましょうね~!あとで八咫烏に氷を運んでもらうわ~!」
「私が運びますよ?」
「一週間分よ?重くて持てるわけないでしょ~」
クスクス綺麗に笑った水吞王子に見送られた私はリュックを背負って河原を後にした。
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