第二章 幻茶と賽子苺ぜんざい

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 旧社殿へと戻る道の途中で振り返ると水吞王子が手を振ってくれていた。つい頬が緩んで手を振り返す。私は彼女の笑顔を見てやっと悟った。私は氷を持ち帰るためでなく、水吞王子が氷を送ってくれるよう機嫌を取るために派遣されたようだ。 「お疲れ」 「え?」  河原が遠のき、旧社殿前に差し掛かろうとしたとき木の影から声がかかった。足を止めて振り返る。木の影に座り込んでいた伏拝さんが立ち上がり、私の前まで歩いて来た。伏拝さんは居づらそうに手で後頭部をかいた。 「伏拝さん?」 「……なかなか茶屋に来えへんから。水吞王子から逃げられへんのやろうなと思って、その……様子見に」  伏拝さんは初仕事の私を心配して迎えに来てくれたようだ。水吞王子がお迎えが来たと言っていたのは伏拝さんのことだったらしい。今日から茶屋で働く私にとって茶屋の主人である伏拝さんは上司。前の職場では元反社会に属した方の家を訪問する時でさえ一人で行って帰ってきた。心配して迎えにきてくれる上司なんて知らなくて、胸がほかほかした。 「伏拝さんは水吞王子とお話するのが苦手だったんですね」 「……あの話、いつも大体言ってること同じやのに、いつも同じ勢いでくるねん。終われへんから恐怖や」  やや間があってからぽつぽつゆっくりと伏拝さんはお話してくれる。細く長くため息をつきながら猫背をさらに丸める伏拝さんがおかしくて少し笑ってしまう。 「お片づけに水吞王子のお相手。伏拝さんのお役に立てることがありそうで嬉しいです」 「助かるわ」  伏拝さんが飾らない短い言葉をくれる。彼の柔い声を聴くとまた胸が小さく、あったかい。私がバス停に向かって歩き始めると、伏拝さんがちょいちょいと手を招いた。 「由真、こっちや」  バス停は間違いなく私の進行方向だったが、私は伏拝さんが招く木の影へと身を寄せた。人目を避けるように木陰に寄ると伏拝さんが手の平で空に向かって円を描いた。同時に桜の花弁が私の周りをぐるぐると舞い始めた。 「桜の花びら?」 「桜風や、じっとしとき」  伏拝さんの落ち着いた声に従ってじっとしていると突然の浮遊感。私の足がコンクリートの地面からふわっと浮き上がってしまった。思わず尖った声が出る。 「え、何ですか!?」 「こっちの方が早いから」  伏拝さんがまた空に向かって平手で円を描くと同時に、桜が起こす風に乗せられて私は空を舞うことになった。うそみたいだった。
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