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伏拝さんの操る桜風に乗せられて、私は初めて空の旅をしたらしい。バスに乗るよりも移動時間の短縮になるからと桜風に乗せてくれたようだが、少しも楽しむ余裕はなかった。浮いたと自覚してから怖くて目を瞑って伏拝さんの作務衣にぎゅうぎゅうしがみついているうちに、発心門様の社の裏に到着した。視界真っ暗の旅だった。
「こ、怖かった……」
私は地面に足がついていることに感謝し、何度も足裏で土を踏みしめた。安全確認する私の横で、伏拝さんは私が力任せに握ってシワシワになった作務衣の胸元をじっと見つめていた。
「由真が……くっついて……」
伏拝さんの頬が桜色をしているような気がするが、空の旅は暑かったのだろうか。私は冷や汗だった。
「あの、飛んだりして人に見られたら不審がられるんじゃ」
「桜風は速いから人の目には見えへんよ」
人の目に見えない速さとはどういったものか。私の理解の範疇を超えていた。私が速さの衝撃で意識を失っていないことを鑑みると、桜に守られながら飛ばされたといった感じだろうか。世にいう神隠しの正体はこれなのでは。どういう現象かわからないということが、わかった。
「やっぱり神様って何でもできるんですね」
「……神様なんて、何の役にも立たんで」
私の感想に伏拝さんがぽつりと零す。寂しげなつぶやきをかき消すように社の正面から発心門様の溌剌とした声が聞こえてきた。
「静江、よく来たな!」
社の裏からこそっと覗くと、社の前で熱心に手を合わせて拝んでいる老婦がいた。私が住む青瓦長屋の大家さん、静江さんだ。静江さんには視えていないが静江さんの真ん前の賽銭箱の上に発心門様が立っている。
「息子の調子はどうだ?」
緑豊かな巨樹と光が溶け合う静寂の森の中で、皺深い老人よりも遥かな時間を生きてきただろう発心門様が笑みが滲ませた。小さな子どもの手が優しく何度も老人の頭を撫でる。幼い頃、お姉ちゃんに頭を撫でてもらった感触を思い出すような深い慈しみに満ちた光景だった。
こっそりのぞいていたはずなのに、拝み終えた静江さんと社の裏にいた私は目が合ってしまった。静江さんは私に気づいて手を上げた。
「あれ?どうしたん由真ちゃんこんなところで。今日から仕事やなかった?」
今日から仕事だと朝に挨拶をしたところだ。社の裏でこそこそして怪し過ぎる。私がどう答えようか迷っていると私の耳元で伏拝さんが囁いた。伏拝さんも静江さんには視えていない。
「本宮大社で働いてるって言い」
耳にかかった息の熱さに一瞬びくついたが、私は言われたとおりに返事をした。
「本宮大社で働かせてもらえることになって。お使いで、ここに」
「それはええところに雇ってもらったなぁ!しっかり働いてや!」
静江さんは人好きのする笑顔で帰って行った。発心門様が裸足で賽銭箱から飛び降りて私の隣に立つ。発心門様は帰っていく静江さんに大きく手を振った。
「静江、またなー!」
静江さんの背中が見えなくなり、私は発心門様に質問した。
「発心門様。静江さんはよく社に来るんですか?」
「月に一度くらいだ。息子が病気らしくてな。よく拝みに来る。息子の病を……治してやれたらいいんだが」
私は先程、桜が起こす風で空を舞うなんて超常現象を体験して、神様の能力のすごさを知っていた。
「痛みを取ったり怪我を治したりすることは、できないんですか?」
「できない。俺ら八百万の神は、できないことの方が圧倒的に多いんだ。俺は縁を視るだけ、水吞王子は熊野川の水を少し氷にできるだけ、伏拝は」
「桜を操るだけや」
発心門様の言葉を、私の後ろに立つ伏拝さんが引き継いだ。私からすればどれもすごい能力だ。けれど、人の悩みを解決できるかという点において見れば、役に立ちそうにない能力だとも言える。
「だがな、俺らは無力じゃない」
発心門様は高い樹木が覆う空を見上げてにやりと笑う。
「視えないものはこの世にいないという人間が多い、こんな今の時代にだ。視えない俺らに手を合わせて頭まで下げて願うほど悩んだ子らが、熊野古道にはやって来る。そんな可愛い子らの話くらい、聞いてやりたいじゃないか」
発心門様は私をまっすぐ見つめて神々しいほどの優しい笑みをくれた。
「そのために、神様茶屋がある」
発心門様が使う「子ら」という言葉に、彼の生きた長い年月と慈愛が宿っていた。彼からすれば、人間はほんの一時の存在なのだろう。発心門様が鳥居に向かって手をかざしぐるんと円を描くと、鳥居の向こう側が歪んだ。神様茶屋への道が、開かれた。
「今日はもうすぐ客が来る。俺の可愛い子だ。頼んだぞ二人とも」
私と伏拝さんは発心門様の大らかな笑みを受け取って、鳥居の向こう側へ進んだ。
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