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プロローグ 水筒のほうじ茶
私は、ほうじ茶が大好き。
お姉ちゃんが買ってくれた薄水色の水筒にほうじ茶をたっぷり入れてもらった。揺れるとたぷんたぷん、カランコロンと軽快な氷の音がする。私は肩から真新しい水筒を下げて、お姉ちゃんと手を繋いで坂を上っていた。見上げても空が見えないくらいに背が高くて太い木が並ぶ間の石と土の道。熊野古道だよとお姉ちゃんは言った。
「由真はもう五年生だからしっかり歩けるね」
お姉ちゃんがニッと歯を出して笑うので、私は大きく頷いた。
「この道を歩くと背筋が伸びて、強い気持ちになるんだよ。お姉ちゃんは今、勝負所だから。パワーもらいにきたんだ」
お姉ちゃんの言葉を聞きながら、私はお姉ちゃんとぎゅっと繋いだ手の熱さとカランコロンの音ににこにこしていた。
そうやって調子よく歩いていたのに、まばたきを二つした瞬間に景色ががらっと変わってしまった。風が右から左へ吹くように自然と、私は一人で古い家の前に立っていた。テレビで昔話を見るときに、よく出てくるような小さな木の家。藁が乗った屋根は、たしか茅葺屋根だ。「昔の暮らし」という社会の授業で習った。
「お茶屋さんみたい」
私から見てもそれほど大きくない茅葺屋根の古い家の中はきっと、学校の教室よりも狭いだろう。昔の旅人が休憩する茶屋のようでわくわくした。お姉ちゃんがいなくなったことがなぜか今は気にならなくて、お茶屋さんだと決めつけた家の前にふらふらと引き寄せられた。
「赤い椅子に座ってお団子食べるんだよね」
木の家の引き戸の前には鮮やかに濃い朱色の布を敷いた長椅子が置かれていた。ここでお茶を飲んでお団子を食べるんだ!と鼻の穴を膨らませて興奮した私は、その椅子にぴょんと座った。お尻に固い木の感触。ふかふかのクッションのように座り心地は良くないが、座ってみたかった気持ちは満足した。
私が足をぶらぶらして赤い椅子で遊んでいると、がらりと木の引き戸が開いた。
古い家の中から出てきたのは男の人だった。お兄さんは少し猫背。年も背も二十歳のお姉ちゃんと同じくらいで、昔の人が着るような作務衣を着ている。ばちっと目があった、気がした。お兄さんは長い前髪のせいで全部目が隠れていたから、気がしただけだ。長い前髪はだらっとしているわけではなく、鼻の上でぱしんとパッツンに切りそろえられている。うっかり伸びた前髪ではなく、わざとその長さにしていることがわかった。お兄さんが耳当たりの良い声を放つ。
「……どこから来たん?」
「さあ」
私は首をひねった。どこから来たのかわからなかった。お兄さんは黒い前髪の奥から私をじっくり見て、私の隣にすとんと座った。
「神様茶屋はお休みやで」
やはりお茶屋さんだったが、店はお休みらしい。残念だけどお金を持っていないのでお邪魔する予定はなかった。それより神様の単語が気になる。
「神様茶屋……じゃあお兄さんは神様なの?」
「そうやで」
「神様すごい」
私は自ら神様を名乗る人を初めて見て、一センチほど腰を横にズラして距離を取った。引いた。さすがに十一歳にもなると神様がいないことは知っていて、自称神様が存在したことに驚いた。同級生の男の子でも俺が神だなんていう子はいない。
「神様はすごい、か」
私が神様お兄さんの前髪の奥を見ようとこっそり角度を変えて奥を覗いていると、お兄さんは大ため息をついて天を仰いだ。
「神様なんて何もでけへん」
「……役立たずって、こと?」
目元が全く見えないお兄さんが頷く。
「神様は、役立たずや」
お兄さんの声が震えて、泣いてるみたいに聞こえた。大人がどんな時に泣きたくなるのか私にはわからなかった。けど、泣いている時にされて嬉しいことは知っていた。
私は肩に下げた水筒からコップを外して、また深いため息をつくお兄さんに差し出した。
「え、僕に?」
お兄さんは首を傾げたけれど、私がコップをもう一度お兄さんの方にぐいっと差し出すと受け取ってくれた。お兄さんの筋が張った手の甲には黒い桜が描かれていた。刺青だ。刺青は怖い人がするイメージだけど、私はお兄さんを怖いとは思わなかった。だって、勝手に赤椅子に座っていた私のことを叱ったり追い出したりしなかったから。
私はお兄さんに渡したコップにほうじ茶を注いだ。水筒の中で氷がカランコロンと踊って、こぽこぽと水筒の口からほうじ茶が流れ落ちる。コップいっぱいたぷたぷになるまで入れた。
お姉ちゃんが淹れるほうじ茶が大好き。大きなやかんいっぱいに熱いお湯を沸かして、スーパーで売っている安いほうじ茶パックを二袋ぼんと放り込む大味な淹れ方。お茶が煮出し過ぎてちょっと苦くなるときもある。でも氷を入れて飲むと渋みが薄くなってほうじ茶のちょっと焦げたような良い香りがふっと鼻の奥にやってくる。そういう感覚を香り高いって、言うそうだ。
私が泣いていたとき、お姉ちゃんは「まずお茶を一杯飲もう」と言ってほうじ茶を淹れてくれた。ほうじ茶を飲むと泣きたい気持ちが少し落ち着くって、私は知っていた。
「ほんまは僕がお茶を淹れる方なんやけど……」
甲に黒桜の刺青を入れた手でお兄さんが薄水色のプラスチックコップを持って、たぷたぷのほうじ茶を眺めていた。
「お茶を一杯どうぞ」
前髪で目が見えない猫背のお兄さんに向かって、私は笑った。お姉ちゃんの真似っ子ができてつい笑ってしまう。お兄さんは私をまじまじと見つめてから、ゆっくりコップを口に運んでこくりと喉仏を上下させた。きっと香り高いほうじ茶がお兄さんの口の中を冷やしてすっきりしたはずだ。お兄さんはほうっと長い息をついた。私は赤い長椅子に座って足をぶらぶらさせる。
「私もね、私って役立たずだなって思うこといっぱいあるんだ。お母さんいなくなっちゃって、お姉ちゃんが一緒にいてくれるって言うけど。やっぱり迷惑かけてごめんねって思って……泣いちゃった」
私はここ最近で一気に変わってしまった暮らしを想いながら、ぼんやりお兄さんの黒桜の刺青を見つめた。お兄さんがまた冷えたほうじ茶に口を付けた。
「でもお姉ちゃんがお茶を淹れてくれたから、泣き止んだよ」
コップを仰いでほうじ茶を飲み切ったお兄さんの口が、への字に歪んでしまった。泣かないよう我慢しているように、見えた。
「お茶の一服くらいで……何か変わるやろか」
「私はまたがんばろうってなったよ」
お兄さんに向かってにぱっと笑う。
「ほら見て、私は今、笑ってるでしょ?お茶ってすごいんだよ!」
「……っ!」
お兄さんは両手で顔を覆ってしまった。また目は見えなかったけど、今度こそ泣いているんだと思う。顔を覆う両手の甲には桜の刺青が二つ並んでいた。私はお姉ちゃんがしてくれるみたいにお兄さんの背中を撫でた。お兄さんの熱い背中は小さく震えていた。お兄さんが泣き止むようにって、ずっと背を撫でていたはずなのに。
まばたきを二つした瞬間、私はお姉ちゃんと手を繋いでいた。
「あれ?お兄さんは?」
「由真、どうしたのぼーっとしてたよ?」
お姉ちゃんがからかうようにニッと笑ってまた私の手をぎゅっと握った。
夢だったのかと思ったけれど、水筒の中身はちょっと減っていた。
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