菫と、一杯のシャンパン

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 湾岸の街から一緒に帰ってきて、嵐が私に触れた、春の夜。あれが、嵐と目を合わせて話をした、最後の時間だった。  あのとき、私が泣いて拒まなかったら、最後まで事を為していたのだろうか。深いところでひとつにつながっていたら、そうすることができていたら、私たちはなにか、変わっていただろうか。  今でも拳ひとつ分の距離を挟んで傍にいられただろうか。あるいは、上手に忘れられただろうか。  ——嵐に、会おう。と思った。  会って、話をしよう。朔郎さんからの求婚を受けるにしろ、受けないにしろ。答えを出す前に、きちんと、嵐と向き合わなければいけない。  嵐は仙台の大学を卒業したのち、大きな会社に就職したと聞いている。最初の二年は西のほうの配属で、三年目に東京に戻ったらしいけれど、今、東京のどこに暮らしているのかは私の知るところにない。たまに会う南が、元気で過ごしているのか、どんなようすなのか、といったことを教えてくれる。  南と嵐の交際は、話をきく限りいたって順調に継続されているようだ。正直、すぐに別れるのだろうとふたりを侮っていたのに、現実というものはしばしば予想外の結果をもたらす。  ふたりが付き合い始めたことをはじめて聞かされた高校三年生の夏には想像もできなかった未来が、八年経った今は当たり前の日常として、在り続けている。  会わないままに長い時間が過ぎ、私も嵐もきっとそれぞれに大人になった。ポケットのなかのスマートフォンを取り出した。嵐と離れてからの八年間で数回機種変更をしたけれど、嵐の連絡先は変わらず残されたままだ。  逡巡しながら、けれども覚悟を決めて一歩踏み出す気持ちで、発信ボタンを押した。呼出音が鳴る、三度、四度、五度。しばらく鳴り続ける。でも結局電話は繋がらず、留守電に切り替わる。  機械的な呼出音が途切れ、入れ替わりに耳に流れ込んできた女性の声のアナウンスにしたがって留守電を入れるべく口を開いた。第一声が少し掠れた。「ひさしぶり」と「元気」と「話がしたい」と「連絡がほしい」という言葉をきれぎれに紡いでいくうちに、二十秒で設定されているらしい留守電の録音はすぐに途切れてしまう。  録音時間の終了を告げる電子音が鳴る。スマートフォンを持つ手がゆっくりと耳から剥がれ落ちた。  あの日触れた嵐の熱をおもう。夜はまだまだ、しんと冷たい。   ◆
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