菫と、一杯のシャンパン

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 出迎えた店員に案内され、店内をすすむ。淡い照明が深い色の木製のテーブルを照らしている。全体的に落ち着いた印象の店は、数年の付き合いを重ねて落ち着くところに落ち着いた、成熟した大人の恋人同士にはとても似つかわしく感じられた。  南と嵐はこうやって年月と関係を重ねてきたのだと思うと、胸がじくりと疼いた。  店の奥、壁際のテーブル席に、嵐は待っていた。  はじめて見るスーツ姿。少年ではなく、大人の男性である嵐。何も知らないまま、恋人の訪れを待ち続ける嵐。  数年ぶりに見た嵐は、やはり美しかった。  最後に会った高校生のときは痩せて不健康そうに見えたけれど、今は至って健康的な二十六歳の男性で、肌のきめも、引き締まった頬や腕も、髪の毛の一本すら、滴り落ちそうなほどのみずみずしい色香を放っている。  吸い寄せられるように、目と、こころを奪われ、離せなくなった。胸の奥の柔らかいところを鷲掴みにされて、千切れそうなほどに痛む。目の奥が熱を孕む。 「嵐」  そっと呟いた。ずっと仕舞い込んでいた宝物におそるおそる触れるように。  美しい瞳が私を見つける。視線と視線が一直線につながり、瞬間、強く引きつけ合って、互いに息を呑むのがわかった。  つながった視線をどうやったって逸らせないまま、ゆっくりと歩み寄り、ふたりがけのテーブルの空いた椅子に腰を下ろす。テーブルを挟んで、触れられるほどの距離で見詰め合う。 「……ああ。麻未、そういうこと」  南の企みにすぐ思い及んだらしい嵐は、苦々しげに顔を歪め、けれどすぐに微笑をつくる。  堪えるようにどこか潤んだ黒目、ぎこちない口角、それは微笑でありながら、泣いているようでもあった。  嵐も、おそるおそる手を伸ばすように、私を呼ぶ。  物心ついた頃からずっと変わらなかった「すう」ではなく。「菫」と。  呼ばれた名前は「すう」とはなぜか別人のもののように響いて、私の鼓膜を揺らした。  離れていた歳月が、嵐のなかで私を「すう」から「菫」にさせた。それがどうしてか、無性に切ない。 「菫。元気だった?」 「うん。嵐は」 「元気だよ。……ずっと、会いたかった」  嵐がほんとうに手を伸ばして私の手を握る。どこか思い惑うようにぎこちなく、元・女たらしらしさ皆無の、不器用な動作で。
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