15人が本棚に入れています
本棚に追加
いくらゆっくりと歩いても、進み続ける限り、終わりはやってくる。私たちの終着点は、地下鉄の駅のホームだった。嵐は社員寮のほうへ、私は自宅のほうへ。同じ路線の上りと下り、反対方向の電車に乗る。
ほとんど人気のない、休日の早朝の駅のホーム。その真ん中で静かに向かい合う。
「嵐。嵐」
「うん」
「寂しいよ。なんでこんなに寂しいんだろう」
嵐は答えるかわりに私の身体を掬うように抱きしめた。けれどすぐに、どちらかが乗らなければならない電車が、音を立ててホームに滑り込んでくる。
「さよならだね。菫」
「そうみたい。嵐、昔みたいに、『すう』って、呼んで。最後に一度だけでいいから」
嵐は首を振った。私たちはやっと、互いから巣立つときがやってきたのだ。
きっともう、ほんとうに、今度こそ二度と会わない。
しあわせであってほしい、と思う。
離れてしまっても。忘れられなくても。
私の前にしあわせの端糸が見えているように、嵐の生活にもしあわせの端糸はいたるところに存在していて、手を伸ばせばきっと、それを手に入れることは容易いのだ。だから、ちゃあんと手を伸ばしてほしい。
そう考えると同時に、しあわせってなんだろう、と、思う。
〈いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。〉
太宰の『人間失格』の一節を思い出す。
ひとを怖れ、ひとを求め、人生を彷徨い続けた葉蔵は、最後には薬漬けになり精神病院に収容される。
——一切が過ぎていったら。
朔郎さんが言った言葉だ。
私の身体の他人との差異も、嵐が生きるために自分を汚していると感じていたことも、ぜんぶが。
小川のようにさらさらと流れていく。
すべて流れていって、すべて、「そんなこともあったね」と、笑い合えるくらいに些細なことになってしまったら。
例えば半世紀ほどが流れ過ぎて、生まれ育った街にお互い帰ってきて、道端で偶然に再会して、皺々になった手を取り合い、名前をそっと呼び合う。すぐに寿命は尽きてしまって、どこかでふたり、冷たい土の下に一緒に眠る。ずっと傍にいる。
恋ははじまらなくとも、永遠に、死にもしない。
そこまで想像して、打ち消すように首を振った。
ただ、ずっと変わらず一緒にいたかった。
最初のコメントを投稿しよう!