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私がいなければ、菫と嵐は今頃、どうなっていただろう。菫がいなければ、私と嵐は今頃、どうなっていただろう。
家を出る直前にピンクブラウンの口紅を塗ったはずの下唇が、異様に乾いてひび割れているような気がして、舌先で舐める。意識的に口角を上げて、明るい表情を作った。
「菫ちゃん。実は私、嵐くんに、一緒に住もうって言われたの」
菫は驚いたように目をわずか見開いたのち、ひっそりと笑って、「そう」と呟いた。それは嵐が口癖のようにこぼす「そう」にとてもよく似ていた。
「菫ちゃんたちは、同棲とか、……結婚とか、考えてないの?」
「どうかな。そういう話、あんまりしないから」
「そろそろ考える年じゃない? ほら、子どもとか、出産年齢が上がってるっていっても、子育てって体力勝負だから、早いほうがいいってよく聞くし」
なんとなくだけれど、菫はよい母親になりそうだと思う。朔郎さんもよい父親になるはずだ。
でも当の本人は誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべるだけだ。
「南のほうこそ、どうなの? 結婚に、子ども」
「どうだろう。嵐くん、また地方に異動になる可能性が高いらしいし。異動抜きにしても、結婚なんかぜんぜん考えてなさそうだし」
「でも同棲を提案したのが嵐なら、少しは考えているんじゃない?」
「だといいけど」
言葉尻とともに、思わず溜め息がでた。嵐から求婚。夢のような話だ。同棲の話すら、一週間経った今でも現実の出来事だったのか、疑わしさが拭いきれないのに。
菫は春の日差しのようにあたたかい目で私を見詰める。
「南と嵐がしあわせになってくれたら、私も嬉しい」
向こう数か月は甘いものは見るのも勘弁願いたい、と、まさに食傷してしまうほどのボリュームがあったスイーツと軽食を平らげ、腹ごなしに街を歩いてはデパートに入り、洋服や化粧品などを見比べたり、カフェでひと息ついたりして、夕暮れに菫と別れた。
マンションに戻ると、暮れ方のオレンジ色に染まるリビングの片隅に置かれたサンスベリアに水をやっている嵐のすがたがあった。
力強く上に伸びた黄色と緑色の細長い葉が夕焼けを浴びて、フローリングの板目に幾筋も長い影をつくっている。
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