菫と、一杯のシャンパン

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「そんな。お仕事、順調?」 「まあまあかな。そろそろ帰る時間? 駅まで送りますよ」 「大丈夫。お仕事がんばってね。これが終わったら私、帰るから」  白いバスタオルに折り目をつけながら言うと、彼の大きくて繊細なつくりをした手が私の手の甲に添えられた。どうしたのだろう、と、顔を窺えば、相変わらず優しく目を細めた彼がいる。 「このままずっと、俺と一緒に暮らしませんか」 「それって」 「プロポーズだと思ってください」  重ねられた手にそっと力がこもる。彼の手のしたで私の手がかすかに強張ったことに、きっと気づかれただろう。 「……本当にいいの? 私で」 「菫ちゃんがいいです」 「だって私、」 「ありのままの菫ちゃんが、俺はすきです」  朔郎さんはどこまでも優しい。たまに、その胸に抱かれ、幼子のように思いきり声をあげて泣きたくなるほどに。  私はその場ですぐに返事をすることができなかった。それでも朔郎さんは微笑んで、「気持ちの整理ができたら、答えをきかせて」とささやいた。  朔郎さんのマンションを出たのが午後九時すぎで、午後十時少し前には自宅へ帰ってきた。  社会人になっても相変わらず、東京と埼玉と千葉の限りなく境目に位置する下町の実家で暮らしている。兄は大学院を卒業し、就職と同時に家を出て数年が経つ。  現在派遣社員である私は、ひとり暮らしをするには少し、給料が心許ない。  新卒で正社員としてそこそこ大きな会社に就職したけれど、風土があまりにも合わず、無理をして二年近く働いて、心身のバランスを崩したことを機に退職した。それからはずっと派遣社員だ。  実家暮らしは金銭的な心配が不要だし、なによりも楽だ。朔郎さんの部屋で過ごしているときの私は、気の利く若い奥さんのように甲斐甲斐しく洗濯をしたり料理をしたりするけれど、実家だとほとんど母に任せっきりである。  このあいだ、一生このまま実家暮らしでいいかなとつい口を滑らせたら、母にこっぴどく叱られた。  二十六歳の誕生日を超えてからの母といったらまったく、娘の結婚という話が大好きな、得体の知れない生きものに変わってしまったようだった。自分が父と結婚したのが二十六歳のときだったらしく、娘も二十六歳のあいだに結婚しなければいけないのだと思い込んでいるのかもしれない。
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