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34階にはトイレが二つ、両端にそれぞれ設置されている。私はいつも、オフィスの従業員入口から遠いほうを使う。
誰もいないトイレに早足で駆け込み、個室に鍵をかける。便器の前にうずくまる。
周りを不快にさせるくらいなら、自分で選んだ当たり障りのない格好をしたらいい。それをしないのは、嫌味を言われることよりも、律を拒むことのほうが私にとってはずっと重大な問題だからだ。
私は律の決めたことを拒めない。
私と律の関係は、恋人同士なんかではない。
律は当然恋人同士だと思ってるし、私たちを知るひとたちもみんなそう思ってる。
でも私にとっては、律は王様で、私はその奴隷だ。
所有されて、気まぐれに弄ばれ、与えられ、傷つけられ、愛でられる。対等な関係なんかではなかった。
しばらくうずくまっていると気分が落ち着いてきたから、ふたをしたままの便器に腰を下ろす。
ジャケットのポケットに入っていたスマートフォンを取り出して、インターネット検索をする。適当に入力した地名に基づいてピックアップされた画像が画面を埋め尽くした。日本の端っこの、行ったこともない小さな町の風景。草原に立つ白い風車の群れ、寂れた商店街、小さな漁船が並ぶ小さな港。青い海。
もし、律と離れることになったら。
あの39階の部屋を出て、仕事もやめて、たったひとりきりで、どこか遠くへ行けるなら。
目を閉じて空想する。
このまま、律が私を完全に手離さなくなる前に。
王様が奴隷を堅い檻の中に閉じ込めてしまう前に。
その前に。どこかへ。
行かなければ。
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