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「律さん、大きくなりましたね。そして、あなたが麻乃さんでしたか」
「は、はい」
「幼い律さんが話をしてくれたこと、よく覚えています。おふたり、それは仲が良くて、あの頃から律さんは麻乃さんに、まさにゾッコンでしたね」
前半は私へ、後半は律へ。
「頻繁にお会いしていたわけでもないのに、よく覚えていらっしゃいますね」
「それはもちろん。6歳の男の子の愛情とはこんなに大きく、清らかで、逞しいものなのかと、驚いたんです。ひとは何歳であっても、これほどの強さで一途にひとを愛せるのだと」
律が気恥ずかしげに目を伏せた。
「さて。20年かけて結ばれたおふたりのために、私も精一杯いいものをつくりますよ」
20年という月日の長さを考える。6歳の律に想いを馳せる。
店主は胡桃沢さんと言う名前だった。
ひととおりのことを話し合って、次の約束を取り付け店を出る直前に、
「ぜひ2階の喫茶店に寄っていってください。私の妻の店なんです」
と言われ、せっかくだからと、帰宅の途に着こうとした足で2階への階段を上がった。
1階のジュエリーショップとはそのまま繋がっている同じ店と言ったほうがふさわしいほど、酷似した雰囲気を漂わせるレトロで落ち着いた店内は、コーヒーの香りで充満している。昼下がりだけれど太陽光がほとんど入らないために薄暗く、入口付近には背の高い本棚があり、洋書から絵本まで、さまざまな本が置いてあった。
入口扉を開けた時、店主の女性はコーヒーの焙煎中だった。扉の上部に取り付けた鐘の音が鳴ったことで、顔をあげ、「いらっしゃいませ」と旦那さんにそっくりな柔和な笑みをその頬と唇に浮かべた。
店内の客はひとりだけで、老紳士が窓際で古めかしい本を読んでいた。私は古書のページをめくるときの、腐り落ちる直前のような甘い香りを思い出した。
律が、店主である胡桃沢夫人に挨拶し、先程1階で指輪を作る相談をしてきた旨をさらりと伝える。
「ご結婚ですか? おめでとうございます。では、義理の母のご友人のご子息のために、私からもささやかなお祝いを」
冗談めかした口上を聴きながら、なんて薄い縁なのだと一方で思う。けれどその薄い縁を大事にしてくれるひとたちがこうやって存在していることがなんだか奇跡的なことのように感じ、じんわりと胸の奥があたたくなるのも、また事実だった。
律の母のことを心に浮かべ、痛ましい気持ちにもなりながら。
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