25歳ーⅡ

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 店主である夫人がお祝いと称して提供してくれたのは、ハート形が表面に施されたカプチーノと、お手製のショートケーキだった。ショートケーキは、「特別仕様」だと言って、半分に切った苺がハート型に飾り付けられている。いつのまにかブランチからかなりの時間が経ち、ちょうど空腹を感じてきたところだったこともあり、律とふたりして素直に、大いに喜んだ。  丁寧に淹れられたカプチーノを味わいながら、胡桃沢夫妻の穏やかな人柄に触れながら、いつしか私は、結婚指輪に関わる暗澹たる気持ちも忘れていた。  久しぶりに、本当に久しぶりに、律と過ごしていることに何の後ろめたさや不安もなく、ひたすらに穏やかで、愉しい時間だった。  そして、夫婦とは、結婚とは、素敵なものなのかもしれないと思わずにはいられなかった。  夫婦でそれぞれ同じ建物内で別々に店をもって、業種は違うけれど同じ空気が流れる店で、同じように少しの客を大事にして過ごす胡桃沢夫妻は、素敵だと思った。 「結婚って、どんな感じですか?」  訊ねると、夫人は綺麗に笑った。 「いろいろあるけど、ひっくるめて、大きな愛に包まれていると日々感じます」     定時退社を常としていた私だけれど、折しも部内の社員の退社や繁忙期などが重なり、いくら早く出社しても定時に退社できないことが何日か続いた。珍しく私が残業するのを見て、「紅谷さんって残業できるんですね」とわざとらしく言った人もいた。  早く出勤して早く帰る。非常に合理的だと思うけど、それは自分がその立場だったら、の話だ。他のひと、特に後輩がそれをするのを許せないひとは多いらしい。そして、許せないひとたちは大抵、私が定時退社する代わりに部署内の誰より早く出社していることなんて、知るはずもないのだ。  今日もいつも通りには帰れそうにない。  律宛に、残業になってしまったので夕食はどこかで食べてきてほしい、との旨のメッセージを送る。  残業は紛れもない事実だけれど、なんだか悪いことをしているように、いやな鼓動がした。  もうこれ以上は残業したくないから、律に連絡もしたことだし、今日のうちに全部終わらせて帰ってしまおう。  そう決心して、私は残りの仕事にとりかかった。ひとり、またひとり、と去っていくオフィス。気づいたら残っているのは私だけになっていた。他の社員のいなくなった分むしろ気が楽になって、思い切り背を反らせ、両腕を上げて伸びをしてみる。パソコンと睨めっこしていて凝り固まった首から背中にかけての筋肉が弛緩し、気持ちがいい。
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