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私は彼の様子をぼうっと見ながら、最近の日課になっている植物の水やりをした。
植物、といっても、手のひらに収まるほどの四角い紅茶缶に腐葉土を敷いて種を蒔いたもので、その種は誰かが取引先のどこかからもらってきたものだし、もともと缶に詰まっていた紅茶は人事部長が飲んだ。どちらも直接譲り受けたものではないけれど、回り回って私のところまで来たのだから、世話しないわけにはいかなかった。
今は小さな芽がでて、双葉がひらき、その間からさらに芽が伸びてきているところだ。何が咲くのか、あるいは実るのかは誰も知らない。
そっと開いた葉に触れると、水滴が一粒、爪先に乗った。
急ぎでもない、やるのは私でなくとも構わない、そんな仕事を淡々とこなしていく。基本は書類の数字を確認してパソコン入力、計算、たまに他の社員への確認、等々。
向かいの席の若い女性社員たちが、今日が初出勤である中途社員の噂をしている。前職がアパレルらしいとか、だからスーツの着こなしが様になってて格好いいとか、仕事できそうとか、恋人はいるのかとか。
その会話を、後ろを通りがかったあまり若くない男性社員が聞いて、にやにやしながら口を挟む。
なになにああいうのがタイプなの君たちって、それセクハラですよぉ、でも普通にかっこよくないですかぁ、まあ良いやつオーラはすごい出てるよねかっこいいかは別として、やだ張り合ってるんですかぁ、○○さんも素敵ですよぉ、あはははははっ。
会話の波は大きくなったり小さくなったりしながら続く。
彼女たちはいつもそうやって、自分たちが立てた波に乗って、しばしば他の社員も巻きこみながら、8時間労働をこなしている。
でも、その波が私にまで届くことはない。
パソコンの隣、紅茶缶の手前に置いていたスマートフォンが振動したので手に取ってみる。
通知欄には1件のメッセージ。
〈今日定時に出られる? 夕食は外で食べよう。〉
質問調だけれど、基本的に私は定時退社を習慣としていて、もちろん彼もそのことを知っている。だからきっと、イエス以外の解答は最初から彼の脳内には想定されておらず、むしろもうすでにレストランの予約まで完了しているだろう。先週がフレンチだったから、たぶん和食。さらに言うと、そろそろ、久しく食していない天婦羅。となると赤坂のあの店。
〈わかった。じゃあ夜に。〉
返信したら、バッグから財布を取り出して、スマートフォンと一緒に持って席を立つ。
「休憩いってきます」
誰も聞いてなんかいないけれど、言って。
オフィスを出る瞬間に響いた大きな笑い声が、私のことを嘲る声でないことを願った。
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