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25歳ーⅢ
会社を辞めたことを伝えたら、彼は「残念だったね」と、痛ましげにうつくしい面貌を歪ませた。まるで、偶然にも不幸な出来事に巻き込まれてしまった恋人を憐れむように。
本音ではきっと清清しているにちがいなかった。それだけでなく、ばかなやつだと心のなかで嘲笑っているかもしれない。蔑んでいるかもしれない。
けれどあくまで、不幸な恋人を心配するやさしい男のように、退職する羽目になった私を励ますように、抱きしめた。そのしらじらしさに腹が立たないわけではなかった。心の底のあたりで、水面がぷくぷくと泡立つように、腹立たしさと、やるせなさ、虚しさが生まれては消え、を繰り返す。
けれど、だからと言って、どうしようもない。
やさしい男のふりをした彼は、傷心の恋人を慰めるみたいに、私を着飾らせ、連れ出した。秋の終わり、冬のはじめの夜。高層ビルの高層階にあるフレンチレストラン。地上200メートルの窓際。澄んだ空気が夜景の光の粒、ひとつひとつを鮮明に際立たせている。たくさんのちいさな宝石を両手に溢れるほど掬っては、黒い紙のうえに勢いよく散らばせたみたいだ。
私には新品のドレスを用意し、自分もクローゼットのなかの一番上等なスーツを着た律は、コースの最後、プティフールとカフェまで堪能したあとに、テーブルに濃紺色の小さな箱を差し出した。
「これ、つけていてほしいんだ」
真ん中からぱっくりと割れるように蓋が開く。中身は指輪。
眩しさに目を背けてしまいたくなるほどきらきらしい、ハリー・ウィンストン。キングオブダイヤモンド。
その名のとおり、この空間のひかりというひかり、みんなその身に集めて発光しているような透明な宝石がいくつもついていて、輝く夜景の何倍ものうつくしさを放ちながら、濃紺のベルベット地に上品に鎮座している。まるで、指輪、それそのものが主人公であるかのように。
「やっぱり、夜景の見えるレストランで、プロポーズ、するべきだったかなって、ちょっと後悔してて」
私は指輪から目を離すことができないまま、3年弱のあいだ働いて得たすべての給与とこの指輪、どちらが高いのだろうかと現実逃避のように考えた。
「あさちゃん、指輪はいくつももってるのに、ひとつもしてないでしょ。それだから、勘違いされるんだよ。男なんて、若くてかわいい女の子が近くにいたら、すぐ勘違いするんだからさ。ちゃんと、左手の薬指、塞いでおいてくれないかな」
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