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それでも私たちの日々は続く。
働いているときは大抵私のほうがはやく家をでた。でも、もう出て行く用事もなくなったから、律が仕事に行くのを部屋着のまま玄関で見送るようになった。
身支度を済ませ、玄関で、手入れされた革靴を履き、後ろに立つ私を振り返る。
皺ひとつないスーツ。やわらかく自然にセットされた黒髪。隙なく完璧に整えられた、それでいて嫌味のない、麗しい容姿の若い男。
でも、一点だけ違和感があった。ほんのわずか歪んだネクタイ。私は結び目に手を伸ばし、形をととのえる。最近、毎日、同じ形に少し歪んでいる。わざと、同じ形に。そうしておけば、私が必ず触れることになるから。
「ありがとう。行ってきます」
彼は、ネクタイを直し終えた私の右の頬に手を添え、左の頬に口付ける。無言で促され、私も同じ動作をかえす。
「……いってらっしゃい」
おままごとのようなやりとりに、なんとも言えない徒労感、無力感とともに、私はひとりきりの玄関に取り残される。そんな日々。
25歳。晴れて無職。
律を見送ったあと、父に電話をした。会社を辞めたことを伝えるためだ。電話口の父はしばらく無言になり、「結婚するのか」と静かに訊ねた。
「律は、そのつもりみたい」
「……そうか」
言葉の前の長い沈黙が父の心のうちを如実に表しているようで、私も自然と無言になる。困惑に頬と口角がかたくなっている父の表情を想像した。
父と話すのは久しぶりだった。大学生の頃に母が亡くなり、ひとりになった父はそれから仕事をセーブして、たまに家事を手伝いにやってくる家政婦の朱音さんの助けを借りながら、広い一軒家にひとりきりで暮らし続けている。最近はあまり体調が良くないのだと、数ヶ月前に実家に少しだけ寄ったとき、朱音さんからきいていた。
「大丈夫、心配ないよ。お父さん、身体に気をつけて過ごしてね。これから寒くなるから」
それだけ投げるように言って、続く言葉を待たずに通話を終了させた。「そうか」の次は、「いいのか」と訊ねられるのではないかと思って、けれどその問いに対しての答えを私はもっていないから。
壁にかかった時計を見ると、まだ午前10時を少し過ぎたくらいだった。仕事をしているときはもう少し、時間が過ぎるのは早かったはずだ。水族館の水槽の中のような、ひろいガラス窓が張られたリビングにひとりでいると、本当に水の中にいるみたいに、なにもかもがスローになる。開いた口から、こぽ、と水泡がこぼれるように、吐き出した吐息が宙に舞った。それは寂しさと同じかたちをしている。
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