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「また来てくれて嬉しい。すきな席にどうぞ」
私は夫人が立っている場所の目前、カウンター席に腰を下ろす。他の客はいなかった。
「平日の昼間ってあんまりお客さんいないの」
私の思っていることを代弁するように胡桃沢夫人は笑った。
「たいていのひとは働いてますからね」
「あなたは?」
「私は、最近仕事をやめました」
「寿退社?」
「結果的には、そうかもしれません」
夫人はそれ以上訊くかわりに、メニュー表を差し出す。
「飲みものはなにがすき?」
「えーと、」
ブレンド、アメリカン、コロンビア、キリマンジャロ。コーヒーだけでもいくつも並ぶ名前に、目が滑る。生憎、コーヒーにはまったく詳しくないし、普段好んで飲むこともない。
「メニューにないものでもどうぞ」
見かねたのか、そう言ってくれた言葉に甘えて、
「じゃあ……」
キャラメルマキアート、と口をついて出ようとしたので、打ち消すように首を振った。
「ココアがいいです。濃厚で、あまいの」
「了解です。もう冬だし、ぴったりだね」
ふたりきりの喫茶店で、胡桃沢夫人がココアを用意するあいだも、ぽつりぽつりと話をした。少ない客を大事にしながらひとりで店を営む夫人はとても聞き上手で、どんな話にも、店内に充満したコーヒーの香りによく似た心地よさの相槌をかえしてくれる。
私は、仕事をやめてから時間がすぎるのが遅いのだと話した。
「本でも読んだら? うちに置いてるのでよければ貸すよ」
「あんまり読まないんです。おすすめありますか?」
「私も、高校の頃まで全然読まなくて、大学生のときに旦那さんに会ってから読むようになったの。面白いものよ」
スレンダーで、瞳がきりっとおおきい夫人が、ご主人のことを「旦那さん」と呼ぶのがなんだかとてもかわいらしく、自然と口許がゆるむ。
「私も旦那さんも、太宰治がすきなの。『人間失格』とか、知ってる?」
「名前だけは」
「『恥の多い人生を~』ってやつね。これを書き上げた一か月後に、太宰は不倫相手と情死した」
「そうなんですか」
中学の国語の教科書で「走れメロス」を読んだきり、太宰のことなんて何も知らなかった私は、素直に驚いた。ぼんやりと、教科書に載っていた、履歴書に貼られた証明写真のような四角く切り取られた作者の顔写真を思い浮かべる。あのひとが、心中なんて。
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