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定時より早く出社し、前日に残した仕事を片付け、日中は淡々と業務をこなし、いつも通り定時で退社する。
夕食は、週に数回は外食、それ以外は私が作る。ちなみに朝食は彼が作る。
役割分担を決めたわけではない、自然と生まれたルールだ。私にとっての夕食づくりは良い気晴らしになっているし、彼にとっての朝食づくりも同様だろう。
駅前のスーパーで目に入った食材をいくつか選び、頭の中で献立を組みながらマンションへ繋がる道を歩く。
都心の一等地、駅から徒歩3分、地上40階、地下2階建てのタワーマンション。その39階に住んでいる。つまり私は、仕事でも私生活でも、地面から遥か上空で生活をしているということになる。
玄関を抜けると広々としたエントランスがあり、さながらホテルのようだ。当たり前のようにコンシェルジュがいて、さらに言えば、カフェラウンジ、プール、ジム、小さな図書館まで併設された、いわゆる高級マンション。
「鴇田さま、お帰りなさいませ」
中年の女性コンシェルジュが、私に気づき笑みを浮かべた。いつも声をかけてくれるこのひとに、なんと答えたらいいのか、いつも迷う。そして結果として、半分困惑した顔で「こんばんは」と言うことになる。
住処は3SLDK。居住面積は知らない。値段は想像もしたくない。
職場の西新宿でも、夜はビル群の明かりが綺麗だけれど、あれは家に帰れない勤め人たちが命を燃やして働いている証だ。だからこそ美しいとも言えるのだけれど、この家の窓から見える夜景は、それとはまるで質が違う。
都心に存在する美しいもの、汚れたもの、価値のあるもの、価値のないもの、すべてのひとの、すべての生活。それらすべてを見下す、殿上人のための景色。桁外れの成功者、あるいは生まれついての高貴な者たちだけに与えられる景色。
スーパーで買ってきた食材をキッチンに無造作に置き、そのままの勢いでリビングのソファに倒れ込んだ。この家のリビングには一面に大きな窓が嵌め込まれていて、ときどき、水族館の水槽の中にいる気分になる。けれど、そんな窓に沿うように置かれたソファは、大のお気に入りだ。白い革のソファは、雲のように夢のように柔らかく、誰よりもなによりも、私を優しく包んでくれる。
あまりに心地よくて目を閉じると、そのまま眠ってしまいそうだった。
はやく夕食の準備をしないと、そろそろ彼が帰ってきてしまう。別に疲れているわけでもないのに、ソファに寝転がるんじゃなかった。そう後悔しながらも、一度閉じてしまった瞼はどうやったって開いてくれないし、心地よいソファは私を包み込んで離さない。
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