「ただいま」

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 初めから期待していなかった俺は、首元のネクタイを緩めて、腕時計を外すとダイニングテーブルの上に無造作に置いた。様子のおかしい妻は放っておいてソファーで横になりどうやら居眠りしている娘の様子を見に行くことにする。 「制服のまま寝たら皺になるぞ。寝るなら、ちゃんと着替えてから自分の部屋で寝なさい」  そう声を掛けてみるが、ピクリとも動かない娘が起きる気配は無かった。  今から妻と話し合いたかったので、娘には自分の部屋に戻っていて欲しかったのだが…俺はそんな事を思いながら娘の寝顔を覗き込む。 (…これ、寝てるんだよな?)  まるで死んだように眠っている。そして、その表情にはどこか生気を感じられずに少し不安になった。  俺はビジネスバッグを娘のすぐ傍に置いて、呼吸しているか確かめるために恐るおそる手を伸ばす。  ドクドクドク、と、再び心臓が嫌な鼓動を打ち始めた。  俺の頭には、ずいぶん昔にたまたまテレビのニュースで目にした一家心中の悲しいニュース内容が思い出されていた。そのニュースの家族は、別の女性と不倫旅行中だった夫を交通事故で亡くした妻が半狂乱となり娘を殺害した後、自身も自殺した…という内容だった。  母親と娘の写真が公開されていて、真っ赤な口紅を使っていたのか、母親の唇が赤かった事が何となく印象的で覚えている。  と、そんな事を考えていると後ろにいた妻が動いた気配を感じて、俺は手を止めて振り返る。妻を見れば、顔を上げてどこか遠くを仰ぎ見るような様子を見せていた。 「……なぁ、俺に不満があるなら言ってくれないか?」  俺はいい加減、この気が滅入る妻との冷戦を終わらせたくて、話しかけながら妻の元へ歩いた。 「理由も分からず無視され始めた俺の気持ち、わかるか?」  訴えるように切実な気持ちで妻と向き合おうとするが、やはり妻からは返事はない。  俺はついにカッとなって声を荒げた。 「もううんざりだ! お前とはもうやっていけない。俺たち離婚しよう」  妻からの返事はない。 「いい加減にしろよ! おい、聞いてるのか!?」  俺は怒りに任せて妻の肩を掴みこちらを振り向かせようと手を伸ばした。  しかし、その手は空を切ったのだ。
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