邯鄲の枕

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邯鄲の枕

 予約していた部屋は六階の一番奥にあった。横の部屋と繋がっているのではないかと思うほど、隣とドアの位置が近かった。机の上にリュックを乗せるとドッと疲れが押し寄せてきた。だが、不思議と眠気はなかった。徹夜をしたはずなのに。  葉田洋(はたよう)は、六月のこの日、I県M市のホテルに泊まった。そして明日、同人誌即売会にサークル参加する予定でいた。その準備のために寝ることを忘れてしまったわけではない。洋は昔から、何か特別な用事がある日の前々日、前日は、なかなか眠りにつくことができないのだ。  よって、明日のことを考えてしまうと、眠気が遠のいてしまう。そしてそれは恐怖へと変わっていく。眠らなければひとは死んでしまう。しかし自分は寝ることができない。だとしたら、このままでは死んでしまうのではないか――と。  夕食を済ませば、もしかしたら睡魔が忍び寄ってくるかもしれない。その一縷(いちる)の望みに(すが)って、ホテルからそう遠くない商店街の方へと、暮色に影を(まぎ)らせながら、蹌踉(そうろう)(あゆみ)を進めていった。  シャワーを浴びてぼんやりとテレビを観ていると、予想通り眠気が訪れてきた。明日の緊張と死への恐れのためにバクバクとしたこころを落ち着かせるために、ASMRを流しながらベッドに横たわった。すると、どんどん意識が遠のいていった。  しかし、次に起きたのは一時間後だった。それだけではなく、びっしょりと汗をかいていた。ペットボトルの水をごくごくと飲む。スマホが示すところによると、まだ九時である。  そして――深夜一時に投稿した掌篇小説に、一件「いいね」がついたという通知が入っていた。洋は自然と、感謝の言葉を(つぶや)いた。  洋は、先月の中旬から今月の終わりまで「毎日掌篇小説を投稿する」というチャレンジをしていた。その挑戦を途切れさせるわけにはいかないため、今日の分を掲載してからここへ来たのだ。よく考えれば予約投稿をすればよかったのだと、今更ながらに気付いた。  思わず洋は眉をひそめてしまった。今日の更新分を一読して、こんな風に思ったのだ。 (まったくもって良い出来ではないな)  こんなことを思うのは、折角読んで下さった読者の方に失礼だと思うのだが、それでもこう、毎日投稿することが目的となって、肝心の「小説を書く力を鍛える」という目標が(おろそ)かになっているような気がするのだ。出来不出来を度外視しているのではないかと。  明日は帰るのが遅くなるだろう。それは十全に承知していたから、次の掌篇予約投稿をしてある。しかしそちらの一篇も、満足のいくものではなかった。  同人誌即売会のことを考えると、二度寝はできなかった。椅子の上で両腕を組んで、あの日のことを思い返していた。  昨年の十二月下旬。国内最大規模のコミック系の同人誌即売会が、例年通り開催された。その前日も、もちろん眠ることはできなかった。しかしそれは、最後の最後まで、我が「師」へとお渡しする手紙の文面をチェックしていたからだった。  当日の混みようはすさまじかった。事前にチケットを買わなければならず、その数も上限があったはずなのに、本当に会場に入れるのか分からないくらいの待機列だった。  港湾の近くということもあり寒さはひとしおで、カイロをもんでいないと正気を保っていられなかった。しかし会場に入ると、人々の(かも)し出す熱気で、厚着をしているのが(うら)めしくなった。  それに、初めての参加ということもあり、目的のブースに中々たどり着けず、足の疲れはどんどんたまっていったし、ほとんどの通路が一方通行になっていて、同じところをぐるぐるしてしまい、焦燥(しょうそう)(つの)るばかりだった。  それでもなんとか、「師」の下へと馳せ参じることができた。そして無事に、大学院進学に際して折った筆をもう一度持ち直し、同人活動を始めるきっかけをくれた「師」への熱い想いを(つづ)った手紙を、お渡しすることができた。  洋はいつしか涙を流していた。このままではダメだ。小手先で小説を書いていてはいけない。一作一作、こころを込めて作っていかなければならない。そして会心の出来のものだけを、読者の方へとお届けするべきだ。 (いつか「師」と一緒にお仕事をする、という夢があるというのに)  中途半端に物事に取り組んでいれば、結果なんてついてこない。現状維持に甘んじるか、ずるずると後退していくだけである。洋はスケジュール帳を取り出した。そこには、文学賞の締切りなどが記されている。 (八月……)  毎日掌篇小説を投稿するという試みを、もう一度やり直そう。もちろん、今月の終わりまで「今回の分」は続けるつもりだ。しかし八月から、一作一作を丁寧に作り込んだ小説を三十一篇、発表していくことにしよう。  どうも肌寒い。ベッドに入って目を(つむ)る。眠れなくてもいい。明日のために横になっておこう。  まんじりとしないまま夜明けを迎えた。身体の疲労は取れずじまいだったが、心はどこか晴れやかな気分になっていた。近くを流れる川の(おもて)が、まばゆい朝陽に鍍金(めっき)をかけられていた。  ほぼ二徹の形になったともいえる洋は、帰りの新幹線で眠ればいいと思っていたのだが、心身の疲労を甘く見積もっていたらしい。  眠る眠れない以前に、幻覚幻聴のようなものに悩まされた。思考も働かなかった。途中、下宿先にたどり着けないのではないかと不安になった。それでもなんとか帰ることができたのだが、耳の中で蝉が鳴いているような感覚に吐き気が止まらなかった。  すぐにでも眠ろうと決めていた洋だったが、その前に、今日の分の掌篇小説が予約投稿されているのを確認し、その流れで一読し、――久米正雄(くめまさお)の言うところの――「微苦笑(びくしょう)」をしてしまった。  〈了〉
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