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4.記憶と魂
教授と出会って一年が経ったころ、庭にテーブルとイスを出して、教授が何冊かの本を読んでいた。
紅茶のティーセットを持っていくと、テーブルの上の開きっぱなしの本には、ローズマリーという青い花の写真と花言葉が書かれていた。
『あなたは私を蘇らせる』。
「教授。この街の人間は死者の蘇生ができるのですか?」
ぼくはテーブルの端に、紅茶をいれたティーカップを置きながら尋ねた。
教授は向かいのイスに腰かけるように手で示したので、ぼくはイスに座った。
「それは肉体の蘇生という意味ではないよ。記憶の再生、という意味だね」
「記憶?」
「人間は、だれかを繰り返し思い出すことで、その相手を愛し続けることができるのだよ。たとえ、そのだれかがもう亡くなっていたとしてもね」
「教授。思い出すのをやめたら、愛することをやめたことになるのですか?」
「わたしはそうは思わないね。
記憶は脳だけに留まるものではないよ。人を形づくる細胞一片一片に、命の底の部分に、記憶は宿る。
脳が思い出すのをやめても、残る記憶はあるのだよ。だから、愛情も、どこかに残るはずだね」
ぼくにはよくわからなかった。けれど、教授の話す言葉は、わからなくても記憶しておきたかった。
「飛び梅、という伝説があるよ。
遠い昔、ある屋敷の主人は庭の梅の花の木をたいそう愛し育てていた。
あるとき、主人は屋敷から遠く離れた土地へ行くことになった。いつ戻れるかもわからない。
東風吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春を忘るな
――春になり、東からの風が吹いたなら、梅の花の香りだけでもわがもとに届けておくれ、主人がいなくとも春を忘れてはいけないよ。
そういう、短い別れの歌を梅の木に残したそうだ。
梅は悲しみ、あるじを慕ってその土地へ向かって飛んでいったそうだよ」
「教授。梅は花だけ飛んだのですか。それとも木ごと飛んだのですか?」
「木ごと飛んだと伝えられているね。だが、わたしは梅の魂が飛んだのだと思うね」
「魂?」
「記憶のかたまり、想いのかたまり、命の底の部分。さわれないけれど、たしかにあるはずのものだね」
命を持つものには、魂というものがあると、ぼくは記憶した。
それはぼくにはなくて、教授にはあるのだと。
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