6.ただいま

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6.ただいま

 教授と出会って三年が過ぎた。  今日も朝になるとぼくは教授の寝室の扉を軽くノックして入り、教授を起こす。 「おはようございます。教授」 「ただいま。わたしのキツネ」  教授は朝起きると、いつも「ただいま」と言うようになった。以前のように「おはよう」とは言わない。  あいさつが少し変わっただけで、それ以外は特に変化はない。  研究室にいる時間は、もう半年以上も前に元に戻っていた。長くもないし、短すぎることもない。  ぼくがいれた紅茶を教授が飲む。  そしてぼくと語らう。  書斎で、居間で、庭で、街へと続く道の上で。    ぼくは夜中から朝まで『休息』する。人間でいえば『睡眠』のように。  寝台はいらない。座れる場所があればいい。  最初にそれを知った教授は、木製の丸みのある(ひじ)かけイスを一つ作って、居間に置いてくれた。  そのイスに座って目を閉じて動かず、記憶の整理をする。不要な記憶は削除し、必要な記憶は残す。  朝になると、教授を起こす。  教授は「ただいま」と言う。  ぼくは教授に紅茶をいれる。    ある日、ぼくは真夜中に居間のイスの上で目を覚ました。なぜだかわからない。今まで一度もなかった。  どうしたらいいかわからず、教授の寝室へ向かう。  廊下は暗く、わずかな明かりしかない。  居間の隣に書斎、その奥に寝室がある。  静かに扉を開けて室内に入る。  教授はベッドの中に横たわっている。その体に手のひらでそっとふれる。  呼吸、停止中。  脈拍、停止中。  心拍、停止中。  生命活動、停止中。  教授は死者の状態にある。  いや、ちがう。  教授は、教授の体は、人型の自動機械だった。  いつからだろう。出会ったときは、教授は生きた人間だった。  ぼくは目を閉じて、「不要な記憶」として削除したものを呼び起こす。  一度削除したとはいえ、完全には消去していない。少し時間はかかるけれど、呼び起こすことはできる。  さかのぼる記憶はぜんぶじゃなくていい。  半年前でいい。  ぼくが朝起こすときに教授が「ただいま」と言い始めたころ。  秋が深まったあの日、研究室の机に教授が倒れこんでいた。手をふれると、もう教授はどこかへ旅立っていた。ぼくは長い時間、そこに立ち尽くしていた。  部屋の机の上には、ぼくに宛てた教授からの手紙が置いてあった。  だれにも知られることなく葬儀を終えること、研究室の裏手に目立たない墓を作ってあるので埋葬すること、そのための準備は整っていること。  ぼくは教授からの指示通りにすべてをおこなった。  最後に、研究室の奥の部屋から教授の形の機械を取り出し、教授の寝室のベッドに横たえた。  ぼくには教授がここにはもういないことが理解できなかった。  ぼくたちは願いを持たないはずなのに。  ぼくは今、狐になりたかった。  ()ける狐になりたかった。  教授がいるところへ、どこまでも走っていきたかった。  そして、この日の記憶を「不要な記憶」として削除した。  朝になると、ぼくは教授の寝室の扉を開き、呼びかける。 「おはようございます。教授」 「ただいま。わたしのキツネ」  教授はベッドの上に身を起こした。  表情は穏やかであるように見えた。  ぼくは、なにかだいじなことを教授に言うつもりでいた。でもなにを言えばいいか、わからなかった。
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