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画家を目指すと息子が言い出すものだから、厳しく矯正してやらねばと、断腸の思いでベルトを引き抜いたのだ。
泣きながら謝る父の姿を見たのは、後にも先にもあの病室だけであった。
「ふっ」
この年になって、衰えばかりが目立つ日々だが、良き感覚を再び体に感じて、さらには懐かしい思い出まで蘇ったのだから、今日はいい日になりそうだと予感した。
しかしその予感は、黒く塗りつぶされる。
ほくそ笑みながら見やった時計は、いつもの出勤時間を超えていたのだ。
慌てて鞄を掴み、家から飛び出した。
職場は家から二駅先にある。
最寄りの駅、馴染みの駅員に会釈をして、列車に飛び乗った。
荒い息を整え、くすんだ腕時計に視線を落とす。
この分ならば、間に合いそうだ。
安堵したのも束の間だった。ゾッとした私は、とある記憶を掘り起こそうと苦悶した。
毎朝の習慣だから、きっと今日も行ったはずである。
50年も生きていれば遅刻の一つや二つしたことがある。そんな日にも似た不安に襲われて悶々としたけれど、帰ってみれば思わず失笑を漏らしたものだ。
心配のしすぎだと思う。
どうせ家の中には、ガラクタしかない。
……私は戸締まりをしただろうか。
価値のないものばかりだから、泥棒も盗みはしないだろうけれど、いやどうだろう。
手ぶらで帰る泥棒がこの世にいるのか。
せっかく盗みに入ったのだから、一つや二つぐらい持って出てくだろう。
お金は銀行に預けてある。
通帳を見つけても、私の魔力がなければ引き出すのは不可能。
だからお金は、心配してない。
とにかくガラクタたちが心配で仕方ない。
特にあの下絵が心配であった。
「間もなく第三庁舎前、第三庁舎前。お出口は右側です」
アナウンスが流れて数秒後には列車が止まった。
長年の慣習は恐ろしいもので、私の意思とは関係なく自動扉に吸い込まれ、駅のホームに立ち尽くす。
そんな時間はないと分かっていても、なんとなく腕時計を見て、ため息をつく。
最初からそうしていればいいのに、私はトボトボ歩きだした。
どうにもあの下絵が気になって仕方ない。
久々に気分を高揚させた下絵が、未完成のまま奪われてしまうのでは?
そう思うと気もそぞろで、いつもと違う職場の雰囲気に気付けなかった。
「フォーヴィー」
私専用の小屋に入り、鞄を所定の位置に置くと、入口から声が掛かった。
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