つ ぎ

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 昨日のあれはなんだったのだろう。大きな疑問なのに、出社するとたちまち消えた。  私が道筋をつけた新規の融資案件を、同期の男がメイン担当者になると伝えられたから。  まただ。 「ミカ君は林をサポートしてやってくれ」  どうして男の上司は、女の部下を苗字でなく名前で呼ぶのだろう。馴れ馴れしい。課長が銀行員特有の、他人の懐具合を見透かす目で私を見る。まぶたは笑みの形に曲がっているが、瞳の奥では私の反応を探っている。  ふざけんな。私が取ってきた仕事だ。私にやらせろ。  暴れる感情を心の底に沈め、同期の林に資料を渡す。林が私に興味を持っているのは、同じ支店に配属された時からわかっていた。よく、色欲のこもった視線を感じる。意中でない男からの好意は迷惑なだけだ。  林に引き継いだ新規融資の仕事は、地元企業の社長が私に会いたくて話が進んだ。社長の目にも、色欲がういていた。  私は男の目をよく惹く。端的に言えば美人なのだ。  だから凛也も、私に強い関心を持った。ちょっと一杯飲む程度の客だったのに、「わかるよ」「会社がバカなんだよ」「ミカは優秀過ぎて、男が嫉妬してるんだよ」と私の欲しい言葉で耳を埋めてくれた。  課長から名前で呼ばれると苦い唾が湧くが、凛也だと頬がゆるむ。呼び捨てにされることで、凛也に所有されている気分になる。  会社のオヤジどもが、飲み屋のママに愚痴をこぼすようなもの。私もちょっと不満を聞いてもらえればいい、と軽い気持ちで入ったホストクラブ。まさか、ここまで嵌るとは。  自分を全肯定してくれる存在に、すっかり依存している自覚はある。金と引き換えのサービスだとわかっていても、抜け出せない。  成果を認められない仕事よりも、凛也の気を引くほうが大切だ。凛也の存在が、私の中に深く根を張っていた。そして貯蓄が底をつく。金がない。  凛也に貢ぐ金をどう調達するか。悩んで歩く私の足は遅い。奪われた案件である地元企業に赴くため、地下鉄の出入り口へと向かっている最中だった。  林とは話したくなかったので、少し後ろを歩いた。それに、隣にいられると恥ずかしい。髪を七三分けにして、櫛目も鮮やかに撫でつけるだなんて、今どきありえない。上役の古くさい髪型を真似て媚び、取り入ろうとする計算高さが鼻につく。九月はまだまだ残暑が厳しく、林の汗と整髪料のにおいも鼻につく。 「たりない。もう一本」  また、声が頭に潜り込んだ。あの時はわからなかったが、女の声だ。若い気がする。  昨日の惨劇が、意識を割って顔を出す。  林の左の足を見詰めたのは、なにかを期待したからかもしれない。  紺のズボンごと、なくなった。  傷口が剥き出しだった。ミキサーで攪拌した生肉を貼り付けたみたいだ。血まみれのミンチ。  肉体を深く傷つけられると、男も女も、獣じみた咆哮をあげるのだとわかった。  もう一つ、わかったことがある。  声に従い、私の見詰めたところは食い千切られる。  牙。人を噛み裂く謎の化け物を、私は牙と名付けた。  牙は使える。  足を一本失えば、日常は消える。腕や指をなくしても、ホストクラブで遊ぶどころではなくなるだろう。  凛也が常連客に育てようとしている女を、片っ端から牙に食わせれば、私は凛也を独占できる。  怪我を負った林のために救急車を呼び、病院に同行する。その日は仕事にならなかった。  一段落がつき、帰社する。地元企業の案件は、私がメインで担当すると課長から告げられた。  誰も待つ人のないマンションに戻り、シャワーを浴びた。林には怒りや嫌悪があった。でも、左足を失ったことで帳消しだ。爽快ですらある。高級スーパーで買った生ハムにあわせ、祝杯の赤ワインを飲んだ。  開いたネットニュースで、昨日のタトゥー女は死んだと知った。大量の出血が災いしたらしい。猟奇犯罪として、大きく扱われていた。
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