世界を変える本

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 僕はこのままでいいのだろうか。と、つい声に出して呟く。何度目だか分からない。声に出さずに心の中で呟いたのを含めると、もう毎日、何度も何度もつぶやいているような気がする。  僕は人間関係がうまく行かず、5年ほど働いていた会社を辞めた。それが一年前だ。貯金で何とか生活しているけれど、このままではいずれ生活できなくなってしまう。せめてアルバイトでもいいから、何か仕事をしないといけない、とは思うのだけれど、思うだけで、どうしても体が動かないのだ。このままではだめだ、と思って、ネットで自分を変える方法を検索してみたりするけれど、そういう行為をしている、という事に満足するのが目的で、本当に自分を変えようなんていう気持ちは恐らく、無い。自分でそう分かっているのだから余計にたちが悪い、と自分でも思っているのだけれど。  そんなある日、「世界を変える本」というのをネットで見つけた。それなりにページ数が多く分厚い本のようだけれど、値段が安く、ほんの200円だった。かつ、レビューを読んでみると、「本当に世界が変わりました」だとか「この本のおかげで幸せになれました」だとか、評価が物凄く高い。これを読めば、僕も変われるかもしれない。そう思って、というよりも思ったふりをして、実際にはやはり、ただ自分は自分を変えるために努力しているのだと自分を満足させるために、その本を注文したのだった。そしてこれまでと変わらない生活をしながら、その本が届くのを待った。  数日後、届いたその本は、確かに分厚かった。開いてみると、最初に「世界を変える意志を持たねばならない」というようなことが書いてあって、ああやはりこれは自己啓発的な本なのか、と思ったのだけれど、実際に読み進めてみると、そうではなく、本当に世界を変える本だった。  といっても、国を変えるだとか世界中の何かを変えるだとか、そんな大きな話ではない。あくまで、自分の周りの世界を変える、という意味だ。ただ、それは単に見方を変えるとか気持ちを変えるとかいうようなことではなくて、本当に変えてしまうのだ。例えば、目障りなものをなくしてしまうとか、欲しいものを手に入れるだとか、そうしたことを実際に行うための魔術の儀式のようなものが非常に多く載っているのだった。目次を見ただけでも、項目は50近くあり、例えば、お金を増やす、人を操る、といった項目もある。  儀式をする程度でそんなこと出来るわけないだろう、と僕は馬鹿馬鹿しくなった。たった200円とはいえ、送料もかかったのだ。つまらない買い物をしてしまった、と思いながら、僕はその本のページをぱらぱらとめくった。  そしてふと目に止まったのが、嫌な人を消すというページだった。すぐに思い出したのが、学生時代からの年上の知り合いのことだった。その人にはものすごく嫌な思いをさせられた。表向きはいい人を装っているから、周りからの好感度はいい人だ。だから僕も最初はそれに騙されて、親しくしていた。しかし、付き合いが長くなるにつれ、その本性を知ってしまい、関わるのが嫌になった。うまくいっている時はいい。しかしうまくいかなくなると、それを周りのせいにし始めるのだ。本人は絶対に謝ったりせず、自分を正当化し、理屈で周りのせいにするから、騙されると本当に周りが悪いように見えてしまう。思い出し始めるとキリがないからやめておくけれど、とにかく僕はその人のせいで、仲の良かった友達とのグループからも距離を置くようになった。これだって、周りから見れば、僕が自ら離れていっただけに見えてしまうのだろうけれど、正しく見れば、どう考えてもその人のせいなのだ。  距離を置くようになってからしばらく忘れていたのだけれど、一度思い出すと嫌な気持ちがすぐに沸き上がってきて、だから僕はその知り合いに対して、この嫌な人を消す儀式をやってみる事にした。なにか魔術のような儀式で、やや時間はかかるものだったけれど、必要なものは身近なものばかりで、広い場所も必要なく、半信半疑ではありながらも、僕はその儀式を最後まで行うことができた。そして。  本当にその人は消えてしまった。儀式を行ってから、その人のSNSを見つけ出し、観察していたのだけれど、それまで毎日何か投稿していたのが、儀式を行った日を境に、更新されなくなったのだ。日が経つにつれて、まさか、という気持ちが、儀式を信じる気持ちへと変わっていく。直接何か手を下したという訳でもないから、罪悪感も薄く、僕は少しずつその本の他の儀式を試すようになった。  それから半年が経つ頃には、僕の世界は大きく変わっていた。たいていの事が儀式によって自分の思い通りになる。自分の思い通りになる、ということが自分に自信をつけ、自分自身も変わっていった。流石に人を消すというようなことは最初に試した時以外はしていないけれど、周りの人を思い通りに操る事も出来るし、それだけでも十分だった。お金だって、働かなくても儀式をすれば、自然と増えていく。  そして最も大きく変わったのは、初めて恋人ができたということだ。ある日、外をぶらぶらしていた時にたまたま知り合い、意気投合し、付き合うようになったのだ。儀式で手に入れた訳ではなく、自分の力で恋人を作ったのだと思うと、益々自分に自信がついた。それが自分をこんなに変えるなんて思いもしなかった。付き合い始めた頃は、一瞬、儀式なんてやめてまともに働こうか、とまで思ってしまったほどだ。勿論この生活を続けるためにも、やめるわけにはいかないのだけれど。  彼女との付き合いは、本当に楽しくて幸せだった。いろんなところに出かけ、彼女のひとり暮らしの部屋に行くこともあれば、彼女が僕の部屋に来ることもあった。僕は儀式のお陰でそれなりに裕福な生活をしていたけれど、彼女は、僕の裕福さではなく、僕の内面に惹かれたのだと言ってくれた。それでますます僕は幸せになったのだ。  そんなある日の事だった。
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