29、 眼鏡の役目もいったん終わりで

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29、 眼鏡の役目もいったん終わりで

 ゲオルグがホールに入った瞬間、喧騒が止んだ。  全ての貴族の上に立つ皇帝が靴音を響かせて中央へと進む。  独裁者の歩みを妨げる者はいない。  流血革命を経て即位した皇帝はこの国でもっとも恐れられている。  逆らえば処刑。そんな噂を何度も聞いた。  貴族たちの動きは早かった。  ここにはゲオルグに謁見したことがある貴族もたくさんいて、その顔を見た瞬間に(ひざまず)く者も少なくない。  頭を上げている人間が誰一人存在しない場を見渡すゲオルグは満足そうだった。  広い空間に満ちた畏敬の念を楽しんでいるようでもあった。  性格が悪い。  でも、そんな男に惚れてしまった私も大概だと思う。 「顔を上げよ」  君主の声が響く。 「“庭園の王者”と名高い対照紋様が目を惹く薔薇の庭園は実に見事なものであった。此度、テューリンゲン公爵邸での舞踏会に参加できたことを嬉しく思う。我らが大帝国に忠誠を誓う帝国貴族の皆々の働きは私の欣幸(きんこう)(心からの喜び)とするところであり、本日は臣民らに吉兆の報を届けに参った」  彼の堂々として淀みない語り口を聞いていると、本当に皇帝になるために生まれてきたような人だと思う。  他者を従わせる威圧感。人の上に立つ能力、人の上に立つにふさわしい貫禄。ゲオルグは全てを兼ね備えている。 「紹介しよう、次代の皇妃だ」  恥ず。  ホール全体が熱気に包まれた。  お祝いの言葉と拍手が私の鼓膜を震わせる。  私は恥ずかしくて死にそうだった。 「大丈夫だ、フリッカ」  ゲオルグが再び私の手を取った。  楽器が音色を奏で始める。  彼は顔に似合わず流れるような所作でステップを踏み、私を導いた。  丸く広がったドレスの裾が、レースのフリルを伴って輪を描く。    最前列で私たちのダンスを見ている貴族の令嬢から「とっても素敵」という声が漏れた。 「聞いたか? 凡人どもは今頃君の魅力に気付いたようだ。あれで審美眼に定評のある貴族様だというから何とも目出度(めでた)い頭をしている」 「ひいいい」  おじさんが踊りながら羞恥心を掻き立ててくる。  拷問だ。 「しかしこのドレスはなかなか立派だな。君の美しさを引き立てる役割を見事にこなしている。俺の目と同じ色を選んだき」 「うるさい! 黙って踊って!」  ゲオルグはステップの合間にも顔を寄せては熱をもって囁いた。  吐息が頬にかかる。  今この瞬間にも倒れそう。 「普段は気の強い君も相変わらずこういうのには弱いな。もっと刺激のある内容を告げてもいいが」 「やめて! 不潔! 不潔な人は嫌いです!」 「――ふ、そうだな。まだデートもしていないのだから今は紳士でいるとしよう」  え?  それって。 「15年前の続きだ。舞踏会が終わったら、食事にいかないか」  ゲオルグはそう言って丸眼鏡を外す。  古ぼけた、皇帝には似つかわしくない眼鏡だった。  思い出した。  それは、前世の私……フリッカ・コロンナの誕生日に彼が買ってくれた眼鏡だ。  ちょうど論文の締め切りが近づいていて、作業で忙殺されていたから忘れてしまっていた。  ようやく論文が完成して出版社に急いだあの朝が、初めてこの眼鏡をかけた日だった。  遺品を、彼はずっと。 「もうこれを外しても大丈夫だな。君が戻ってきたんだから」  そういって彼は宮廷服のポケットに眼鏡をしまった。
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