底なし沼

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「さっき、“前”って言ったよね」 今更答えてくれる気になったらしい彼方がそう口にする。 「え…」 「そうだよ。今日が初めてじゃない。ここには前にも来た」 「っいつ…?!」 「いつって…本当は覚えてるんじゃないの?」 彼方の手がこちらに伸びてきて、体が強張る。 嫌だったわけじゃない。ただ冷たく細められたその瞳が怖かった。 だけどそれを見た彼は、どこか自嘲気味に笑って。 「…あの日も、俺を“祥太郎”だと思ったから、家に入れたんだ?」 「!ち、ちが…」 「あいつだと思ってキスしてた?」 「違う…っわたしは…」 やっぱり、あの日のことは夢じゃなかったんだ。 祥太郎だと思って、なんて、そんなことあるわけないのに。 あの日のことは、夢だとは思っていたけど、夢でも、相手は祥太郎じゃなかった。 ずっと彼方だった。 それなのに… 「キスの練習とかってさぁ」 「…っ…」 「真白は、もう少し賢くなった方がいいんじゃない?」 蔑むような、突き放すような、冷たい言葉が、私の胸に突き刺さった。
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