7人が本棚に入れています
本棚に追加
5月3日と追想
五月の日差しが白いレースカーテンの繊細な花模様を透かして、私のからだに影をつくっている。
大学入学直前に母と一緒に近所の大きなホームセンターで買い揃えた家具や家電、生活雑貨、なかでも、いかにも少女趣味な小花柄のレースカーテンとライムイエローの遮光カーテンは私ではなく母のチョイスだ。
「菜央はやっぱり黄色よね」
当人である私以上に、私の眼前に広がる新生活への期待に胸を膨らませているご機嫌な母は、そう言って迷いなくそのカーテンを選んだのだった。
名前のせいか、生まれてこのかたイメージカラーを他人につけられる際には例外なく百パーセント、黄色を与えられる。夏に咲く向日葵の色でも秋を彩る銀杏の色でもなく、春の菜の花や、ミモザのようにどこか緑みのある黄色。
使いはじめてひと月と少ししか経っていないカーテンは、まだ、ビニールの包装を破ってカーテンレールに引っ掛けたあの時とまったく変わらない色をしているように見えた。まっさらで、どこまでも清潔な白と黄色。
薄汚れ、くたびれていくのはいつからだろう。
目新しく感じている生活のすべてが当たり前のものになり、過去はさらに記憶の後方に追いやられ、六畳のワンルームを支配している新品の生活必需品たちがなにもかも色褪せて、住人である私はそれらが古くなった分だけ一緒に歳をとる。
嬉しかった言葉も哀しかった出来事も、優しい肌も、心焦がれた声も匂いも、あの頃確かに感じた幸福も不幸も、生きている限り、私はぜんぶを、少しずつ過去にしていく。そうやって生きていく。
レースを通りぬけてほんの少しだけ柔らかくされた日差しに右手のひらをかざした。指と指の隙間からかたちのない太陽を見て、目を細める。スマートフォンが傍で震えた。
私もスマートフォンも、フローリングに直に寝転がっているので、小さな個体の振動は板目をつたって大袈裟な音を立てて響いている。無視しようかと一瞬頭をよぎったけれど、居留守なんて使ってしまうと後が面倒臭い相手であることは画面に表示された名前を見なくとも想像できたため、7コール目で電話をとった。
そのひとの声は、離れ離れになってからしばらく経つのに、私のなかでいっこうに過去にはならない。過去にさせる間もなくこうやって連絡がくるのだ、それはもう、頻繁に。
「昼飯食べた?」
耳に流れ込んでくる低い声は、触ればひやり冷たく、透き通った硝子を思わせる。いつも。
「まだですけど」
最初のコメントを投稿しよう!