5月4日と追想

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 郁奈くんの腕のなかが安全なぬるま湯なら、心季くんの腕のなかは、幸福な微熱だった。  それ以上熱くなるとなにかが確実に駄目になってしまう、そんなぎりぎりの温度、心地よい微睡み、ぼやけた意識。  心季くんの体温はいつも少し熱くて、ひとよりもずっと弱く脆く作られていた彼のからだは、思えばいつも、ウイルスやらなにやらと必死に戦っていたのかもしれない。真夏の冷房をきかせた部屋のなかで、少し熱い肌が、私の肌に吸いついた。 「心季くん、心季くん……」  決定的なことは言えないから、何度も何度も名前を呼んだ。名前を呼ぶ温度で、すべて伝わってしまえばいいと思ったし、なにひとつ伝わらないでほしいとも願った。  薄っぺらな胸に顔を埋めると、ふにゃりと蕩けた微笑が降りてくる。 「菜央のからだ、どこもかしこも、あつい。熱上がりそう」  実際、抱き合った後に熱を出してしまったことが、何度かあった。その度に後悔する私を見て、心季くんは困ったように眉尻を下げた。「菜央のせいじゃないよ」と言って、でも互いに、もうやめにしようとは言えなかった。  私たちの密やかな遊びには、消費期限があった。 「もういっそ、菜央のなかにいるときに死にたい」 「やめてよ。トラウマになって一生誰ともできなくなっちゃう」  なんて冗談ぽく返すと、ゆるゆると腰を動かしながら彼は声をあげて笑った。笑っているのに泣いているようにも見えた。 「ならやっばり、いつか、菜央とこうしてるときに、死ねるように願掛けしとくよ」  その「いつか」は、たとえば50年後、60年後であれば良かったけれど、1年、2年、もしかしたら数ヶ月後かもしれないことを、知っていた。  だからこそ、幸福なばかりのこの微熱が、ずっと冷めなければいいのにと、本気で願っていた。  わずかな猶予期間に永遠に留まって、夢と現実のはざまで、いつまでもゆらゆらと漂っていられたらいいのに。  
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